「汚れを除く方が来る」

「汚れを除く方が来る」

聖書 マラキ書 3:1−4、フィリピの信徒への手紙 1:3−11

2018年 12月 9日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

神はかつて、預言者マラキを通して、イスラエルの民に語りかけました。

 

見よ、わたしは使者を送る。

彼はわが前に道を備える。

あなたたちが待望している主は

突如、その聖所に来られる。(マラキ 3:1)

 

待ち望んでいた者が来ると言うのですから、

喜ばしい知らせがこの預言者を通して語られているかのように思えます。

しかし、マラキによれば、どうやら神からの使者は、

人々が心から願った形で来るわけではないようです。

マラキは続けて、このように語っています。

 

だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。

彼の現れるとき、誰が耐えうるか。

彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。(マラキ 3:2)

 

神がイスラエルの民のもとに送る使者とは、精錬する者の火のようだ。

そして、洗う者の灰汁のようだと、マラキは告げます。

一体、この言葉にどのような意味が込められているのでしょうか?

それは、当時のイスラエルの現実がよくわかる言葉でした。

精錬するための火が必要ということは、

金や銀に不要物が混じっているということですし、

灰汁が必要ということは、

衣服が汚れてしまっているということです。

つまり、この2つのイメージを用いて、

神はイスラエルの人々にこのように伝えているのです。

「金や銀に含まれている不純物が分かちがたいように、

あなた方が抱える罪や汚れは、あなた方の一部となってしまっている。

また、衣服の汚れが簡単に落ちないように、

あなた方の存在そのものに罪や汚れがしみついてしまっている」と。

そして、そればかりでなく、

精錬する者として、洗う者としてやってくる者を通して、

神は、イスラエルの民から

罪や汚れを取り除くと宣言しておられるのです。

しかし、その方法は決して、人々にとって喜ばしいものでも、

待ち望んでいたものでもありませんでした。

というのも、罪や汚れを取り除くための方法について、

苦しみや痛みが伴うことが想像できるイメージが

ここで用いられているからです。

不純物を取り除き、純粋な金や銀を取り出すためには、

火によって金や銀を精錬する必要があります。

また、汚れやしみがついた衣服は、

洗濯機や強い洗剤のないこの時代においては、

灰汁を用いて強くこすって、その汚れを落とさねばなりませんでした。

当然、誰もそのように取り扱われたくなどありません。

しかし、私たちが抱える罪や汚れというものは、

精錬のために火を、そして洗うために灰汁を

用いなければならないほどに、

私たち自身の人格や存在に深く刻み込まれているのです。

確かに、その通りです。

どうしても、人を傷つける言葉がこの口からなくなりません。

噂話や陰口、誹謗中傷を好んでしまう自分自身がいます。

自分の正義や価値観、そして信念を貫くばかりでなく、

他人に押し付けることだって、しばしばあります。

時には、信仰という言葉を盾にして、

誰かを傷つけることだってあります。

そう、これほどまでに、罪や汚れというものは、

私たちの全生活、全存在に深く結びついているのです。

だからこそ、マラキが語るように、

私たちから罪や汚れを取り除こうとするならば、

必ず、そこには苦しみや痛みが伴うものだと納得する他ありません。

それでは、神がマラキを通して語ったこの言葉は、

人々からどのように受け止められたのでしょうか?

預言者マラキを通して、神が「見よ、わたしは使者を送る」と

イスラエルに語りかけてからおよそ400年後に、

バプテスマのヨハネという男の口が開かれました。

福音書記者たちは、バプテスマのヨハネを通して、

マラキが語ったあの預言の言葉が再び語られたと証言しています。

すなわち、「神の子であるイエスさまが神から遣わされて来る。

だから、その道を整えよ」と。

福音書記者たちは皆、イエス・キリストを通して

この言葉が実現したと受け止めたため、

バプテスマのヨハネの言葉を福音書の初めに記録しました。

ということは、イエスさまを通して、マラキの言葉は実現したと、

キリスト教会は初期の歩みから受け止めてきたのです。

それでは、マラキの言葉は一体どのように実現したのでしょうか?

果たして、イエスさまはマラキが語るような、

精錬する者の火だったのでしょうか?

イエスさまは、洗う者の灰汁のような人物だったのでしょうか?

そして、人々は、罪や汚れが取り除かれるために、

イエスさまを通して苦しんだのでしょうか?

いや、寧ろ、私たちが受けるべき痛みや苦しみのすべてを、

イエスさまがその身に引き受けてくださいました。

神の思いを伝えながらも、イエスさまご自身は、

すべての人の罪のために十字架にかけられ、

十字架の上で息を引き取りました。

なぜそこまでして、神は私たちから罪や汚れを

完全に取り除こうとしておられるのでしょうか。

それは何よりも、あなた方が、金や銀のような尊い存在だからです。

あなたの存在そのものに、神は美しい価値を見出しておられるのです。

だから、神があなた方を愛してやまないから、

神は、独り子であるイエスさまを

私たちのもとに遣わしてくださいました。

ところで、なぜイエスさまは神の愛の現れだと言い切れるのでしょうか?

それは、マラキが語ったように、

イエスさまが「契約の使者」として私たちのもとに来た方だからです。

神は、イスラエルとの間に恵みの契約を結びました。

そして、イエス・キリストを通して、

すべての人々との間に契約を結ばれています。

その契約の内容は、神が私たちを永遠に愛し、

神が私たちと共にいてくださるというものです。

この契約に基づいて、神は私たちを愛し続けておられます。

この契約は、決して変わることがありません。

そのため、契約に基づく神の愛をイエスさまを通して受けているから、

私たちは罪や汚れを取り除かれた者と神から認められているのです。

そして、将来、イエスさまが再び来られる日、

この救いの業は完成します。

使徒パウロは、その喜びをフィリピの教会に宛てて書いた手紙の冒頭で、

このように表現しています。

 

キリストの日に備えて、清い者、

とがめられるところのない者となり、

イエス・キリストによって与えられる義の実を

あふれるほどに受けて、

神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

(フィリピ 1:10−11)

 

イエスさまによって私たちは今、罪赦されているけれども、

相変わらず、罪は私たちの生活の一部です。

でも、パウロは、イエスさまが再び来られる日、

その罪が完全に取り除かれると心から信じています。

パウロが「キリストの日」と呼ぶ日、

すなわち、イエスさまが再び来られる日に向かって、

私たちは清い者、とがめられるところのない者へと

聖霊の働きによって整えられていくのです。

それは決して、理想論ではありません。

実際に私たち信仰者に起きている現実だと、

パウロは強く確信をもって、フィリピの教会に語りかけているのです。

ですから、たとえ今は、罪や汚れが私たちの生活の一部だとしても、

私たち自身は神によって日々新たにされている中にあるのです。

神は真実なお方です。

ですから、私たちを愛し、

私たちに向かって手を伸ばし、

私たちから罪や汚れを除いてくださる神を

私たちは心から信頼することが出来るのです。

そう、あなた方一人ひとりは、イエスさまによって、

清い者、とがめられるところのない者とされているのです。

さて、私たちは今、アドベントと呼ばれる時期を過ごしています。

かつてイエスさまがこの地上にお産まれになった日を思い起こしながら、

将来、主イエスが私たちのもとに再び来られる日が

訪れることを思い起こす季節です。

マラキが「あなたたちが待望している主は

突如、その聖所に来られる」と語ったように、

主イエスは、突然、私たちのもとに来ます。

それは、私たちを恐怖に陥れ、

自分たちの抱えている罪や汚れに絶望させるためではありません。

寧ろ、私たちが抱える罪や汚れを完全に取り除き、

私たちを神の前で清い者、とがめられるところのない者とするために、

私たちに愛を注ぎ、私たちを喜びで満たすために、

イエスさまは再び私たちのもとに来られるのです。

ですから、私たちにとって、イエスさまが来る日は、

喜びをもって、待ち望むべき日なのです。

2000年前の出来事を思い起こし、

今、この時、イエスさまの誕生を喜ぶように、

私たちは、将来、必ずイエスさまが私たちのもとに来る日を

心から待ち望み、喜ぶように招かれているのです。

その日、あなた方は、罪や汚れのない者と変えられます。

その日、あなた方は、不純物を取り除かれた、

金や銀のように、美しい存在へと変えられるのです。

灰汁で洗うよりもはるかに、

清く、しみや汚れのない美しい存在へと変えられるのです。

ですから、喜びをもって主イエスを待ち望み続けましょう。

イエスさまは、私たちから罪や汚れを除く方として、

私たちのもとに来られるのですから。