「死の陰の地に、光が輝いた」

「死の陰の地に、光が輝いた」

聖書 イザヤ書 8:21-9:6、ルカによる福音書 2:1-14

2018年 12月 23日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。

地を見渡せば、

見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。

今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。

 (イザヤ8:21-23)

 

今からおよそ2700年前に、

この言葉は預言者イザヤを通して語られました。

でも、今の時代に向けて語られたとしても

おかしくないと感じてしまうのは、私だけでしょうか。

世界中がクリスマスを喜び祝っているこの時、この瞬間も、

この世界には闇が広がっていること、

様々な事情で苦しみ、涙を流している人たちがいることを、

悩み、身を引き裂く思いを味わっている人たちがいることを、

きっと誰もが知っていると思います。

見えにくいものですが、貧困は確実にこの国にも広がっています。

安いもの、便利なものに飛びつき、

気づかぬうちに、搾取に加担している場合だってあります。

経済的な貧しさだけでなく、

心の貧しさだって感じることがあるでしょう。

学校の現場では、相変わらずいじめが絶えません。

そもそも大人たちが差別やハラスメントをやめようとしていません。

いや、きっと、日常的に無意識に行ってしまっているため、

言葉や行動による暴力に気づいてさえいません。

私たち自身がその一人となっているかもしれません。

預言者イザヤからどれだけの時代が過ぎたでしょうか。

それなのに、私たちの社会は、この世界は、相変わらず、

「苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」を抱えているのです。

いや、私たち一人ひとりも様々な形で

そのようなものを抱えています。

この先どうなるかわからない、

どうしようもない不安や悩みを抱えています。

家族や友人たちとの関係の中で受ける様々な傷を抱えています。

行き場のない怒りや憎しみを抱えることもあれば、

終わりのない悲しみを覚えることもあります。

自分の置かれた現実を呪い、

神に向かって怒りを露わにしたくなる。

そのような感情が突然、

私たちのもとに訪れる場合だってあるのです。

もちろん、生きている時代や置かれている状況が違うため、

イザヤが語った闇と、私たちが心で思い描く闇とは違います。

イザヤの時代に人々が経験した悲しみや苦しみは、

私たちが経験する悲しみや苦しみと、

そっくりそのまま同じというわけではありません。

イザヤの言葉を聞いた当時の人々が抱いていた不安や苦しみは、

自分たちの国の行く末を案じたものでした。

舞台は、2700年前にパレスティナの地にあった、

南王国ユダという名の国。

この時代、近隣の国との間に、

「シリア・エフライム戦争」という名の戦いが起こり、

ユダの国は、存亡の危機に陥りました。

それは、ユダに暮らす人々にとっては、生命の危機でした。

まさに、暗闇に包まれるような思いでした。

人々は、この戦争を回避できなかった王を呪いました。

いや、それだけでなく、自分たちの神を呪うことさえしました。

「神よ、なぜ私たちをこのような苦しい目にあわせるのですか。

神よ、あなたを信じて生きているのに、

なぜ私たちは暗闇の中を歩まねばならないのでしょうか」と。

このように、将来への不安で

心が押しつぶされそうな状況に置かれた人々に向かって、

イザヤはこのように語りかけました。

 

闇の中を歩む民は、大いなる光を見

死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ 9:1)

 

今現在は、闇の中を歩んでいるかもしれない。

しかし、あなた方は大いなる光を見ることになると、

イザヤは希望の言葉を語り始めます。

この時、彼は強い確信をもって、ユダの人々に語りかけています。

というのも、旧約聖書が書かれたもともとの言葉を確認してみると、

「見る」、「輝く」という意味の動詞が、

完了形で記されていることがわかります。

私たちの手元にある日本語訳の聖書も、

完了形で、つまり、既に実現した形で、

「見た」「輝いた」と訳されています。

なぜイザヤは、将来起こることを

既にそれが実現しているかのように語るのでしょうか。

それは、神がそのようになると約束したならば、

必ず、その約束は実現するからです。

ですから、イザヤはこの時、神への強い信頼をもって、

将来のことを完了形で、既に実現しているものとして、

ユダの人々に語りかけたのです。

「あなた方は今、闇の中を歩んでいるかもしれない。

けれども、あなた方は将来、必ず、大いなる光を見る」と。

それでは、イザヤが語る光とは、

一体、どのような光なのでしょうか?

イザヤは、このように語ります。

 

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は、「驚くべき指導者、力ある神

永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ9:5)

 

おそらく、ここで誕生が約束された者とは、

ヒゼキヤという名の王のことです。

ヒゼキヤは、シリア・エフライム戦争から、

およそ20年後にユダの王となった人物です。

ですから、ヒゼキヤ王が

戦争を終結させたというわけではありませんでした。

人々を恐怖に陥れた戦争は、

当時の大きな力を持っていたアッシリア帝国に、

ユダの国が頼ることによって何とか回避することが出来ました。

しかし、アッシリアに頼ってしまったため、

ユダの国はアッシリアの支配を受けることになり、

また違う形でユダの国に闇が訪れてしまったのです。

アッシリアの支配を受けたため、

ユダの国の神殿に、異教の神々の像が置かれてしまったのです。

ヒゼキヤは、ユダの国に新たな闇をもたらした

アッシリアとの関係を切った王でした。

ユダの国を復興させる、期待された王でした。

しかし、ヒゼキヤも完全な王ではありませんでした。

一時的に、ユダの国を救ったけれども、

完全な平和など訪れませんでした。

やがてユダの国は滅び、この世界にも、人々の心にも

闇は広がったままでした。

だからこそ、信仰者たちは、

預言者イザヤの言葉が、神の約束された言葉が、

完全な形で実現する日を待ち続けました。

およそ700年後、神は、御自分の愛する独り子を

人間の赤ちゃんとして私たちに与えることによって、

預言者イザヤの言葉を、確かに実現してくださいました。

つまり、今日、私たちがその誕生をお祝いしている、

神の子であるイエス・キリストを通して、

イザヤの言葉は実現されたのです。

イエスさまを通して、神が私たちに与える光とは、

やがて、この世界から暗闇をすべて取り除く光です。

神は、イエスさまを私たちのもとに送ることを通して、

約束してくださっています。

私たちを苦しめる様々な支配は過ぎ去り、滅び去る。

私たち自身が抱えている罪や悪は過ぎ去る。

死さえも、滅び去る、と。

そのような形で、この世界に、私たちの生きる社会に、

私たち一人ひとりの心に、平和をもたらすのが、

神が私たちのもとに送られた平和の王、イエス・キリストなのです。

今はまだ、私たちの周囲には暗闇が広がっているかもしれません。

でも、イエス・キリストを通して、

必ず、この世界の暗闇は一掃されます。

というのも、預言者イザヤを通して、

神は、私たちにこのように約束してくださっているからです。

 

万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ 9:6)

 

神が熱意をもって、私たちを愛し抜いてくださいます。

神が熱意をもって、私たちを救ってくださいます。

神が熱意をもって、この世界の暗闇を一掃してくださいます。

それは、一握りの選ばれた人間のためだけに

起こる出来事ではありません。

すべての人のために起こる、愛に溢れる、神の救いの業です。

何よりも、小さく、苦しんでいる人のために、

神はその手を伸ばしておられます。

あなた方が、喜びに溢れているときも、

悲しみや苦しみを抱えるときも、

涙を流し、悩みを抱えているときも、

神は、あなた方から暗闇を取り除くために、

その手を伸ばしておられます。

それが確かなことだと私たちに教えるために、

最初のクリスマスが祝われたあの日、

神は、羊飼いのもとに天使を遣わすことによって、

イエスさまの誕生を知らせてくださいました。

2000年前、暗闇の中、羊の番をしながら孤独を感じていた

野宿をする羊飼いたちのもとに、

神はイエスさまの誕生を知らせました。

この当時の羊飼いたちは、

見捨てられ、社会からのけ者にされ、孤独を感じていた人々です。

そのため、彼らは救い主が来たという知らせに喜びました。

暗闇の中に光が輝いたからです。

社会も、周りの人間も、神さえも呪いたくなる現実がありました。

でも、神に見捨てられたわけではない。

神に愛されていると羊飼いたちは教えられ、

驚き、そして喜んだのです。

神は、このときの羊飼いたちと同じように、

私たちのことを愛し、大切に思ってくださっています。

イエスさまを通して、

神は、あなた方の人生を光で照らそうとしておられます。

イエスさまを通して、

神は、喜びをあなた方に与えたいと願っておられます。

イエスさまを与えることによって、

神は、あなた方と一緒にいたいと願っておられます。

ですから、私たちにとって、クリスマスは、

イエスさまがお生まれになった日は、心から喜ぶべき日なのです。

今日、私たちは心から神に願いましょう。

「どうか、私たちの心を、私たちの日常を、

私たちの生きるこの社会をあなたの光で照らしてください」と。