「永遠に変わることのない方を信頼する」

「永遠に変わることのない方を信頼する」

聖書 イザヤ書 61:1-4、ヘブライ人への手紙 1:5-14

2019年 1月 20日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

ヘブライ人への手紙は、「手紙」という表題が付いていますが、

実は、当時の教会で語られた3つの説教が収められた書簡だと、

現在では考えられています。

さきほど読んでいただいた箇所を読むと、

この手紙が、もともとは説教であるといわれる理由が

よくわかると思います。

というのも、著者は旧約聖書から7つもの引用を行って、

今日の箇所を述べているからです。

聖書を土台にして、その時代の信仰者たちに相応しく、

神の言葉を伝えることは、いつの時代も教会が行ってきたことです。

そう考えると、ヘブライ人への手紙が朗読されることを通して、

1世紀の末に、キリスト教会の中で当時の信仰者たちに語られた

説教の雰囲気が何となく伝わってくる気がします。

それでは、旧約聖書から多くの引用を行うことを通して、

著者は今日のこの箇所によって、

一体、何を人々に伝えたいと願っていたのでしょうか。

一読して気づくのは、

御子、つまりイエス・キリストと天使が比較されていることでしょう。

著者は、天使とキリストの比較について、このように語り始めます。

 

いったい神は、かつて天使のだれに、

「あなたはわたしの子、

わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、

更にまた、「わたしは彼の父となり、

彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。(ヘブライ 1:5)

 

天使とは、神の言葉を携えて、

人々に伝えるメッセンジャーだと考えられていました。

その意味で、天使たちは、

神の言葉を伝える重要な役割を担っている存在だと言えるでしょう。

しかし、そのような天使たちに対して、

神は決して、「わたしの子」とは言わなかったと、

著者は旧約聖書からの引用を通して伝えています。

天使たちはあくまで神によって造られた者に過ぎず、

イエス・キリストのみが、神から「子」と呼ばれ、

神に対して「父」と語ることの出来る存在だと、

著者は宣言しているのです。

天使たちが神によって造られたものであることを強調するため、

著者は、詩編から引用して、「神は、その天使たちを風とし、

御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と語っています。

ここで、天使たちが、風や炎と言われています。

風や炎は、明らかに神によって造られた存在です。

そして、実体のない、形のない、簡単に変わりゆく存在です。

つまり、著者はこの引用を通して、

神の言葉を伝える役割を担う天使たちでさえも、

神に造られた被造物にすぎないと、強調して伝えているのです。

では、天使たちと比較されている、イエス・キリストはどうでしょうか。

イエスさまは神によって造られた存在ではありません。

神から子と呼ばれる存在です。

いや、著者は、イエスさまをそれ以上の存在として認識しています。

「神の子イエス・キリストは、神である」と。

イエスさまは、神によって造られた存在のように、

限界があり、やがて朽ち果てていく存在ではありません。

そうではなく、イエス・キリストは、永遠の神であると、

天使たちとキリストを比較することを通して、

著者はこの手紙を読むすべての人々に伝えているのです。

このようにして、著者はイエスさまが永遠の神であると、

人々に伝えようとしていますが、その際、

彼はふたつの視点からイエスさまの永遠性について語っています。

ひとつは、8節において、「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、

また、公正の笏が御国の笏である」とあるように、

著者は、王であるキリストの支配が永遠のものだと語っています。

この地上には、様々な支配者がいます。

人は、様々なかたちで自分のもつ権力を他人に対してふるいます。

しかし、この地上で生きる者たちの支配はすべて、

やがて過ぎ去っていくものです。

すべての支配は過ぎ去り、イエスさまが正義をもって

すべてのものを永遠に支配される時が必ず訪れるのです。

そして、もうひとつは、造られたこの世界との比較の中で、

イエスさまが決して変わらない方であることが伝えられています。

「これらのものは、やがて滅びる。

だが、あなたはいつまでも生きている」と(ヘブライ1:11)。

神によって造られた生命あるものはすべて、

いつか必ず終わりを迎えます。

永遠に変わらず、形を留めることの出来るものなど、

この世界に何一つとしてありません。

しかし、イエス・キリストは、永遠の神であるため、

いつまでも決して変わらず、天の神のみもとで生きておられるのです。

著者はこのような強い確信を、この手紙の終盤において、

「イエス・キリストは、きのうも今日も、

また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ 13:8)

と表現しています。

このように、これほど丁寧に、そして慎重に、

著者はイエスさまが永遠の神であることを伝えています。

でも、ところで、イエスさまが永遠の神であるということは、

一体、私たちに何の関係があるというのでしょうか?

イエス・キリストが、永遠の神であることは、

すべての時代において、そしてこの世界のすべての領域において、

決して変わることなく、イエスさまが永遠に

私たち一人ひとりと関わりをもち、

イエスさまが父なる神と共に支配しておられることを意味します。

このキリストの永遠の支配は、イエスさまが私たちのもとに来て、

私たちに仕えてくださることを通して、私たちのもとで実現しました。

イエスさまはご自分の死を通して、

つまり、十字架上での死を通して、

すべての人に罪の赦しを与え、罪の支配から解放し、

私たち一人ひとりを神の永遠の支配の下へと移してくださいました。

つまり、永遠の生命、神との永遠の交わりが

私たちには今、与えられているのです。

実際、自分の生命を投げ出す歩みをしたため、

イエスさまは一時的に天使より低い者とされました。

もしもイエスさまが味わった苦しみにばかり、

イエスさまが抱えた弱さにばかり目を向けるならば、

意味のないものを信じていると錯覚してしまうことでしょう。

でも、イエスさまと天使を比較することを通して、

イエス・キリストは永遠に変わらない方であると、

著者は強く宣言しているのです。

永遠に変わらない方が、天使よりも遥かに優れている方が、

驚くべきことに、私たち人間を愛し抜くために

自らの生命を投げ出して十字架にかかり、

苦しみや悲しみ、侮辱や罵りを経験し、

天使よりも低い者とされました。

それは、あなた方を罪の支配から、神の支配へと移し、

あなた方に永遠の生命を与えるためでした。

イエスさまがすべてをかけて実現してくださった、

私たち一人ひとりの救いは、決して、永遠に変わらない事実なのです。

確かに、この世界のものはすべて

簡単に移り変わり、過ぎ去っていきます。

私たち自身さえも変わってしまう、移ろいやすい存在です。

すべての人間は、やがては必ず生命を失い、朽ち果てていきます。

しかし、永遠に変わらない方に、永遠の生命を約束してくださる方に、

私たちは決して揺るがない望みを置くことができます。

永遠に変わらない方が、私たちを救いに定めてくださっているのです。

永遠に変わらない方が、私たちのために苦しんでくださり、

生命をかけて、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。

永遠に変わらない方が、復活の生命を用意してくださっているのです。

そして、天の御国という永遠の都さえも用意してくださっています。

私たち自身は変わり行き、過ぎ去っていく儚い存在です。

けれども、私たちを救ってくださったイエス・キリストは、

昨日も、今日も、そしてこれからも、決して変わらないお方です。

私たちの側がどれほど変わろうとも、

私たちの身体や心がどれほど衰えようとも、力を失おうとも、

イエス・キリストを通して示される神の愛は、

永遠に変わることがありません。

ですから、イエス・キリストが決して変わらない方だということを、

私たちはこの信仰の旅路において、いつも心に留めるべきなのです。

「イエス・キリストは、きのうも今日も、

また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ 13:8)。

これこそが、私たち信仰者が生涯の喜びとして、

心に抱き続けるべき希望です。

永遠に変わることのない方、

私たちの究極の希望であるイエス・キリストを心から信頼して、

 

これからも信仰の旅路を共に歩んで行きましょう。