「神の恵みによって、すべての人のために」

「神の恵みによって、すべての人のために」

聖書 イザヤ書 63:7-9、ヘブライ人への手紙 2:5-18

2019年 2月 3日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣牧師

 

ヘブライ人への手紙の著者は、1章において、

神の御子であるイエスさまと天使たちを比較することに

多くの時間を割いています。

その際、天使たちは神によって造られた

やがては朽ち果てていく被造物に過ぎないけれども、

イエスさまは神の独り子であり、神であると伝えました。

つまり、イエスさまは天使たちよりも

遥かに優れた存在であることを著者は強調しました。

しかし、2章において著者は、

詩編8篇から引用して、このように語ります。

 

あなたは彼を天使たちよりも、

わずかの間、低い者とされた(ヘブライ 2:7)

 

著者は、詩編のこの言葉が、

イエス・キリストについて語られたものと考えています。

イエスさまは、天使たちよりも遥かに優れた存在です。

いや、そもそも比べられる存在ではないのに、

それなのに、イエス・キリストは、

わずかの間、天使たちよりも低い者とされました。

どのようにして、イエスさまは低い者とされたのでしょうか。

それは何よりも、私たちと同じ人となることを通してです。

実は、この手紙の著者は、2章の前半まで、

「御子」か「主」という言葉を用いて、

イエス・キリストについて語っていました。

しかし、9節から、

つまり、イエスさまがわずかの間、

天使よりも低い者とされたことが伝えられた時から、

著者はそれまで御子と呼んでいた方を「イエス」と呼び始めます。

イエスとは、神の子キリストが、

この地上において呼ばれた名前です。

神の子であるにも関わらず、

完全な人間として、歩まれた方の名前です。

天使たちよりも高く、遥かに優れた存在であるにも関わらず、

神の子が人間となることを通して、

人間の苦しみと弱さのただ中に、

自らその身を落とされました。

そのことを証しする名前が、

この「イエス」という名前なのです。

しかし、神の子であるイエスさまが、人間となったことだけが、

天使よりも低くなったということではありません。

著者は、人となられた神の子、イエス・キリストが、

この地上において経験されたことを一言で、このように語ります。

 

神の恵みによって、

すべての人のために死んでくださったのです。

(ヘブライ 2:9)

 

神の子である方は、人間になることによってのみ

天使よりも低くなったわけではありませんでした。

イエスさまは「神の支配があなた方のもとに訪れた」と、人々に伝え、

人々の病を癒し、悪霊を追い出し、様々な奇跡を行いました。

はじめの頃は喜ばれ、多くの人々に受け入れられました。

けれども、最終的には、ご自分の愛する弟子の一人に裏切られ、

逮捕され、他の弟子たちからも見放され、

人々から罵られ、暴力を受け、拒絶されました。

そして、死刑に定められて、

最終的に、十字架の上で息を引き取りました。

息を引き取るとき、イエスさまは十字架の上で、

「私の神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、

神に向かって叫びました。

自分の仲間たちや他のユダヤ人から見捨てられただけでなく、

イエスさまは、神からも見捨てられたのです。

このようにして、イエスさまは、天使よりも低い者とされました。

イエスさまが十字架にかけられ、

すべての人からも、神からも見捨てられた、

この出来事だけを見るならば、

救い主だと祭り上げられた一人の人物が、

最後は悲惨な死を遂げたというような出来事にしか見えないでしょう。

でも、著者は、神の子であるイエスさまが死んだというこの出来事は

「神の恵みによって、すべての人のために」

起こった出来事だと言います。

一体なぜ、神の子の死を、

「神の恵み」と捉えることが出来るというのでしょうか。

むしろ、神の子の十字架上での死は、

神の敗北のようにさえ感じてしまいます。

しかし、著者は「そうではない」と力強く否定するでしょう。

神の子イエスの死は、神の敗北ではなく、

神の恵みがすべての人のために注がれるための出来事だからです。

イエスさまの死によって明らかにされた、神の恵みについて、

著者はこのように語ります。

 

死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを

解放なさるためでした。(ヘブライ 2:15)

 

イエスさまが十字架の上で死んでから3日目に、

神は驚くべき奇跡を起こされました。

墓を開き、死者の中からイエスさまをよみがえらせたのです。

この出来事を通して、神は、全世界に、すべての人々に、

死への勝利宣言をされました。

死の先に、復活の生命が神によって用意されているのだと、

イエスさまを通して、神はすべての人々に明らかにされたのです。

確かに、誰にとっても、死は恐ろしいものです。

死は情け容赦なく、私たちから突然、

大切なものを、愛する人を奪い去っていきます。

ですから、死について考え、死と向き合うことは、

私たちにとって、とても恐ろしいことです。

でも、将来、死という眠りから、

神は私たちを目覚めさせてくださいます。

死によって失った愛する人たちとの関係を

神は再び私たちに与えてくださいます。

だから、神がイエスさまを復活させ、

死に対する勝利宣言をされたことによって、

死の恐怖にばかり心を支配されることから、

私たちは解放されたのです。

これが、神が私たちに与えてくださった希望にあふれる約束です。

そして何よりも、聖書によれば、すべての人は罪の奴隷です。

使徒パウロは、本来、人間が罪の奴隷とされていることを

ローマの教会の人々に宛てた手紙の中でこのように書いています。

 

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、

善が住んでいないことを知っています。

善をなそうという意志はありますが、

それを実行できないからです。 

わたしは自分の望む善は行わず、

望まない悪を行っている。(ローマ7:18-19)

 

人を心から愛したいのに愛せない。

言葉や行いで、簡単に傷つけてしまう。

神の喜びとは正反対の歩みをしてしまう。

そのような現実を抱えている私たちは、

誰もが罪の奴隷であると、聖書は私たちに突きつけているのです。

神は、私たちが罪の奴隷のままでいることを良しとせず、

イエスさまの死を通して、

私たちの罪を赦してくださいました。

そして、将来、必ず、罪を滅ぼされると約束されました。

そのようにして、イエスさまによって、

すべての人の前に救いの道が開かれ、

すべての人が罪の奴隷から解放される道が開かれたのです。

その意味で、イエスさまの死は、

神の恵みによって起こった出来事といえます。

これが、天使よりもイエスさまが低くされた理由です。

私たち一人ひとりを愛し抜くために、

神が、愛する独り子であるイエスさまを低い者とされたのです。

あなた方を愛し抜くためには、

あなた方の罪が赦され、罪が滅び去るためには、

神が愛する独り子を犠牲にし、見捨てなければならなかったのです。

そのような意味を込めて、

著者はイエスさまのことを「救いの創始者」と呼びました。

イエスさまは先頭に立って、

私たちのために救いを切り開いてくださいました。

そして、ご自分の命をかけて救いの道を切り開き、

私たちを罪の奴隷状態から解放し、

神の民、神の子どもとしてくださいました。

著者は、「多くの子らを栄光へと導くために」と言います。

本来私たち人間がもっていた輝きを取り戻すために、

イエスさまは救いの道を開いてくださったのです。

様々な事柄によって、人間存在は傷き、損なわれています。

神は、人間に「神のかたち」を与え、

本来、栄光ある存在として創造されました。

しかし、罪によって、この神のかたちが傷ついているのです。

傷つき、損なわれている、神のかたちに造られた私たち一人ひとりが、

本来もっている輝きを取り戻すことが出来るために、

神は、イエスさまの死を通して、

私たちの救いを実現してくださったのです。

ところで、ヘブライ人への手紙の著者は、

とても現実的に読者に語りかけていると思います。

著者は8節で、「しかし、わたしたちはいまだに、

すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」と言います。

神の恵みによって、イエスさまが低い者とされたことを通して、

すべての人のために救いが実現したはずです。

でも、その救いのわざが広がっていない。

罪や悪がこの世界に蔓延しているように思えるのです。

確かに、それは事実でしょう。

そのような世界で、私たちは苦しみ、悩みながら、日々歩んでいます。

救いの完成は、イエスさまが再び来られる日まで

待たなければなりません。

でも、救いの道は、既に、あなた方の前に開かれています。

将来には確実に希望があります。

もちろん、私たちに与えられているのは、

将来の希望だけではありません。

今、この時、この瞬間の励ましを

私たちはイエスさまから受け取ることができます。

イエスさまは、私たちに対して憐れみ深い、

神の前で忠実な大祭司となって、

私たちのために祈ってくださっています。

人間となられた神の子であるイエスさまは、

私たちの抱える痛みや悩み、

経験する苦しみや悲しみのすべてを知っておられます。

そのような私たちと共に苦しみながら、

イエスさまはいつも私たちのために祈っていてくださるのです。

そして、苦難の中にあって、私たちを守り、

救いの道をいつも開いていてくださいます。

預言者イザヤは、私たちと共にいてくださる神は、

「昔から常に 彼らを負い、

彼らを担ってくださった」と証言しています(イザヤ63:9)。

苦しみの中、私たちがどうしようもないと感じる時は、

神自らが、私たちのことを背負ってくださいます。

私たちのために命をかけてくださった方は、

そのようにして、私たちと苦しみを共にして、

私たちを守り、天の御国へと至る道を最後まで歩ませてくださるのです。

私たちは、「神の恵みによって、

すべての人のためにイエスが死んだ」という知らせを

教会の交わりの中で聞いています。

ですから、たった一人で天の御国を目指す、

孤独な旅に私たちは招かれているわけではありません。

聖書を通して聞いた救いのメッセージを

信仰を抱く仲間たちと一緒に想い起こし、一緒に喜ぶ歩みに

私たちは招かれているのです。

苦難の中を歩む時、苦しみを共にし、

共に祈る交わりに招かれています。

私たち一人ひとりを背負うと共に、

この交わりごと、この信仰共同体ごと、教会ごと、神は背負い、

喜びや苦しみを共にしながら、

天の御国へと向かう旅路を共に歩んでくださるのです。

その意味で、あなた方の生涯に、

神の恵みはこれからも注がれ続けます。

どうか、感謝しつつ、神の恵みを受け取り続けることが出来ますように。