「天の召しに共にあずかっている!」

「天の召しに共にあずかっている!」

聖書 出エジプト記 32:7-14、ヘブライ人への手紙 3:1-6

2019年 2月 10日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣

 

ヘブライ人への手紙の著者は、読者に呼びかけることを通して、

キリストを信じる人々とは一体、何者であるかを伝えようとしています。

そして、何よりも、そのような人々が集う、教会という群れについて、

どのように理解するべきかを私たちに伝えるために、

著者は、読者にこのように語りかけました。

 

天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち(ヘブライ 3:1)

 

「天の召し」とは、何を意味するのでしょうか。

聖書の語る天とは、現代人が考える天、つまり空とは違います。

天とは、神が支配する領域のことです。

人間の力で、天に行くことは決して出来ません。

ですから、天の召しとは、

人間の外側からやって来るものと言えるでしょう。

すなわち、神の招きとは、私たちの手の届かないところから、

神の恵みとして私たちのもとにやって来るのです。

人間の外側ということは、

私たちの側には理由がないということです。

神の側にこそ理由があり、神の意志に基づいて、

私たちは神から招かれ、聖なる者とされているのです。

それはつまり、神によって選ばれ、神のものとされたということです。

この選びに天の召し、神の招きがあるのです。

もちろん、それは私たちから自由を奪うものでは決してありません。

私たちの意志や感情を無視して、

自分の都合の良いように動くロボットのように、

私たちを用いるために、

神が私たちを選び、私たちを神のものとしたわけではありません。

神は、私たちを宝のように大切にしてくださいます。

神の独り子であるイエスさまが、

まことの人として私たちのもとで生きたことを通して、

私たちが思うよりも、神は近くに、私たちと共におられ、

私たちと親しく関わりを持ちたいと

神が心から願っていることが明らかにされました。

つまり、私たちの人格も、感情も、

心に抱える思い煩いのすべてをも大切にしながら、

神はあなたを喜びをもって受け止めてくださっているのです。

私たちの存在のすべてを愛し、

慈しみをもって手を伸ばして、神はあなたを選びました。

その選びは、イエスさまを通して実現したことです。

だから著者は、「わたしたちが公に言い表している

使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」

と読者たちに勧めています。

イエスさまのことについて、

著者はここで、ふたつのことを伝えています。

ひとつは、イエスさまが神から遣わされた使者であること。

つまり、人間の中にあって、

イエスさまは神を代表する存在だということ。

そして、大祭司はすべての人間を代表します。

旧約聖書の時代、大祭司は年に1度、動物の血を携えて、聖所に入り、

神の前に立って、人間の罪の赦しを祈り、

イスラエルの民のとりなしを行いました。

それに対して、イエスさまが罪の赦しのために犠牲を捧げたのは、

ただ1度だけでした。

著者によれば、神の前で大祭司として人々のために祈るために、

イエスさまは天に昇りました。

大祭司として、十字架で流したご自分の血を携えて、

天に昇り、天の聖所へ入り、

私たちに罪の赦しを与えるとりなしの祈りをささげました。

そして、すべての人の罪の赦しが、

キリストのゆえに宣言されたのです。

イエスさまに注意を向けるとは、

イエスさまが成し遂げたこのような働きに、

イエスさまを通して明らかにされた神の愛に、

心を向けるということです。

私たちは、自分の力によって

神に救われたわけでは決してありません。

あなた方一人ひとりが優秀だったから、

神から選ばれたというわけでもありません。

努力でもなければ、能力でも、血でもありません。

ただただ、神が私たちを憐れんでくださったから、

天の招きが私たちに与えられました。

この神の招きに共にあずかっている人々の集まりを

著者は神の家、すなわち、教会と呼んでいます。

教会は、自分から進んで行く場所のように思えるかもしれません。

家族や友人に連れられて来る場所に思えるかもしれません。

しかし、本質は全く違います。

神があなたの名前を呼んで、

あなたをここに招いたから、

あなたはここに、この場所に、教会の交わりの中にいるのです。

その意味で、神の招きがなければ

教会は存在することが出来ないのです。

ところで、本来、神を信じる人々を呼ぶ場合、

新約聖書の他の手紙は、

「兄弟たち」や「愛する者たち」と呼んでいます。

でも、著者はここで、

「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかけています。

なぜこの手紙の著者は、こんなにも丁寧に、

読者に向かって、教会に向かって、呼びかけたのでしょうか。

それは、2章で明らかにされたように、

簡単に「押し流されてしまう」危険に晒されていたからです。

信じていることや、希望として抱いていることなど、

どうでも良いことのように思えてくる。

そのような時代の雰囲気や、自分たちを取り巻く環境に、

人々が簡単に押し流されそうになっていたからです。

だから著者は、自分たちが何者であるかを

しっかりと思い出すようにと伝えるために、

「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかけました。

「あなた方は、神に招かれたのだ。

そのことを忘れてはいけない。

神の恵みと憐れみをしっかりと思い出してくれ」と。

そのような切実な思いを込めて、著者は、

教会が教会であり続けるために、必要なことを語りました。

 

キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。

もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、

わたしたちこそ神の家なのです。(ヘブライ3:6)

 

私たちが持つべき誇りとは、

自分自身に対する誇りではありません。

選ばれた事実を誇ることでもありません。

先に選ばれた者は、神から与えられている祝福や恵み、喜びや平安を

他の人々に分かち合う使命を与えられています。

選民意識を持って、高慢になってしまっては、

そのような使命を果たすことなど出来るはずありません。

私たちが誇りとすべきものは、

私たち自身が持つものではありません。

私たちは、神ご自身を誇りとするようにと招かれています。

神を信じる自分を誇りとするのでもありません。

この世界を造られた神が

心から信頼することの出来る方であり、

私たちを救う力を持っていることに、

この世界を支配し、歴史を導く方であることに、

私たちは確信と希望に満ちた誇りを持つことが出来るのです。

また、私たちはイエス・キリストを

誇りとするようにと招かれています。

イエスさまを通して、神の救いの計画は明らかにされました。

イエスさまの十字架を通して、私たちの罪は赦されました。

イエスさまが死者の中から復活したことを通して、

私たちに復活の生命と永遠の生命の約束を与えられました。

この方以外に、私たちを救う方はいないのです。

だから、私たちはイエス・キリストを誇りとします。

そして、私たちは、聖霊を誇りとするようにと招かれています。

聖霊こそ、私たちと神とを結ぶお方です。

聖なる霊が、私たちと共にいてくださるから、

私たちはこの方を通して、いつでも、どこにいても、

神と親密な交わりを持つことが出来るのです。

そして、何よりも、聖霊こそ、

教会に集う者たちを結び合わせる方です。

私たちの力で教会の歩みを保つことは不可能です。

聖霊が私たちを結び合わせなければ、

様々な違いを抱える私たちは、

共に歩むことなど出来ません。

だからこそ、私たちひとりひとりを

キリストにある兄弟姉妹として結びつけ、

愛に満ちた交わりを作り出す聖霊を私たちは誇りとします。

天の召しに、つまり、神の招きに共にあずかっている皆さん、

これが、私たちキリストを信じる者たちの、教会の正体です。

どうかイエス・キリストを見つめるたびに、

私たちに与えられているこれらの誇りを

想い起すことが出来ますように。

私たちが誇り、喜ぶべき、

これらの誇りを決して忘れてはいけません。

教会が、教会であり続けるために。

キリストを信じるあなた方が、信仰者であり続けるために。

実際、私たちは日常の中で、様々な影響を受けています。

時に、自分が何者であるかを忘れて、

周囲が求める自分の姿を作り出すことに奮闘してしまいます。

神の喜びや善、平和や和解を追い求めることを諦め、

今この時、この瞬間の喜びだけを

追求してしまうことだってあるでしょう。

私たちは、あまりにも簡単に忘れてしまう存在です。

だからこそ、著者は、

「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続ける」ようにと

私たちに強く勧めるのです。

どうか、神の招きが与えられているという救いの事実を

あなた方の希望の源としてしっかりと抱き、

誇りとして保ち続けることができますように。

 

もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、

わたしたちこそ神の家なのです。(ヘブライ3:6)