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「神の言葉に刺し通されるならば」

「神の言葉に刺し通されるならば」

聖書 アモス書 5:6-15、ヘブライ人への手紙 4:11-13

2019年 3月 3日 礼拝、小岩教会

説教者 稲葉基嗣

 

私たちが生きる上で、

言葉は決して欠かすことの出来ないものです。

自分の思いを伝え、相手の気持ちを知るためには、

お互いに言葉を通わす必要があります。

言葉がなければ、細かな情報を伝えることは難しいでしょう。

でも、言葉がなくても、

表情や動作を通して、絵や物を通して、

伝わることもたくさんあります。

その意味で、この口から出るものや、

文字として記されるものだけが言葉なのでなく、

私たちの生き方そのものも言葉といえるでしょう。

ですから、そう考えると、

私たちは様々な言葉にいつも囲まれて生きています。

ただ、そのことは、いつも喜べることではありません。

時々、周囲の言葉に耳を塞ぎたくなるのは、

何も私だけではないと思います。

人を非難し、貶めようとする声が聞こえてきます。

陰口が囁かれるのが聞こえてきます。

自分とは違う考えや文化もち、

違う外見や生き方をする人々を

拒絶し、差別する声が聞こえてきます。

そのような声を聞いて、苦しみ、嘆く声が聞こえてきます。

平和ではなく、対立や争いが広がる声が聞こえてきます。

聞こえてくるだけならば、まだ良いのかもしれません。

悪意や敵意に満ちた言葉が、

私たちに牙をむくことだって十分あります。

相手にその気がなくても、言葉が鋭く私の心を傷つけることもあります。

そのような経験を誰もが何度も味わってきたことでしょう。

そうです、私たちはこれまでに色々な言葉に傷ついてきました。

言葉は、慰めや愛情を私たちのもとに届けると共に、

私たちを深く傷つけることも出来るのです。

言葉のもつ鋭さのようなものは、

誰もが認めるところでしょう。

ヘブライ人への手紙の著者は、神の言葉について語った際、

「どんな両刃の剣よりも鋭い」と表現しました。

神の言葉は決して死んだ言葉ではなく、

その言葉を聞いた人々に対して、

生き生きと語られ、力を発揮するものだと、

著者は強く確信しています。

そして、神の語られた言葉の力の現れ方とは、

剣よりも鋭く、あなたを刺し通すことだと、

著者はこの手紙を読むすべての人々に伝えています。

著者は、神の言葉の持つ鋭さについて、

「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、

心の思いや考えを見分けることができる」と書いています。

つまり、神の言葉は、

人間存在のすべてを刺し貫くことが出来るようです。

心の奥底に、魂の深みに至るまで、

私たちを探り、私たちを刺し通すのが、神の言葉です。

確かに、私たちは神と出会い、神の言葉を聞く時、

傷つく経験をします。

聖書を通して、「愛しなさい」と語りかけられる時、

本当のところは誰も愛することが出来ていない

自分と出会います。

いや、そもそも自分さえもうまく愛せずにいるのかもしれません。

そして、「赦しなさい」と語りかけられる時、

相変わらず心が煮えたぎり、怒りを覚え、

赦すことなど出来ない自分と出会います。

「正義を貫け」と言われても、

神の願う正義を求めるよりも、

自分なりの正義や正しさを求めてしまいます。

それが暴力になり得ることがわかっていたとしても、

それを変えていくことに力を注ぐことが出来ません。

「弱い者を助けなさい」と言われても、

社会的に弱い立場に立つ人々に関心を持つことさえ出来ません。

むしろ、気づかぬうちに、

そのような人たちを苦しめる側に立っている場合だってあります。

まさに、神の言葉との出会いは、

私たちに、私たち自身の弱さや醜さを突きつけるのです。

神の言葉を真剣に聞こうとすればするほど、

剣よりも鋭いその言葉によって、

心の奥底をえぐられ、

魂の深みに触れられることになってしまうのです。

私たちは、神の言葉との出会いを通して、

自分自身に失望させられる可能性が十分にあります。

ですから、その意味で、

神の言葉に耳を傾けるのは、とても危険なことなのです。

そうです、日曜日ごとにこの場所に集い、

神の言葉に耳を傾けたいと願っているあなた方は、

いつもこの危険と隣り合わせでいるのです。

しかし、神が私たちにこのような危険を与えようとするのは、

私たちのことが憎いからではありません。

私たちが傷つく姿を見て楽しむために、

神はこのような危険を私たちに与えているわけでもありません。

むしろ、私たちを愛しているから、

私たちが日々喜びのうちに生きてほしいと願っているから、

神は私たちにいつも語りかけておられるのです。

その意味で、神の言葉は、

剣やナイフで切りつけるようなものとは違います。

私たちは時として、誰かに深いキズを与えるものとして、

言葉を用いてしまいますが、神は違います。

神は、外科手術で用いるメスのように、

その言葉を用いるお方です。

つまり、私たちを根本的に癒やすために、

神は私たちに語りかけておられるのです。

私たちの存在を心の底から、魂の深みから、

新しくするために、

神は私たちに語りかけておられるのです。

私たちが癒やしを受け、回復するためには、

時には、このメスによって傷つけられる必要があるのです。

私たちの心に愛が芽生えるためには、

人を赦す心が芽生えるためには、

何よりも私たち自身が自分の力では、

愛し、赦すのには限界があることに気づく必要があるでしょう。

それは時として、認めたくない、

苦しいことです。

しかし、どこまでも私たちを愛し抜き、

私たちに限りない赦しを与えてくださる

神の愛と赦しに触れることこそ、

私たちには必要なのです。

神はいつも私たちに語りかけることを通して、

神の愛と赦しを私たちに届け、

私たちを癒し、私たちを神の民に相応しい姿へと

日々造り変えたいと願っているのです。

しかし、私たちが癒やされるために、

神の子としての立場が回復されるために、

最も傷を負い、苦しんだのは、神ご自身だったことを

私たちは忘れてはいけません。

ご自分の子であるイエスさまが犠牲となりました。

神が死ななければ、神が生命を差し出さなければ、

私たちの傷は癒やされませんでした。

聖書の記述によれば、それほどまでに、

私たちが抱えている罪は深いものなのです。

しかし、感謝すべきことに、

私たちには罪の赦しが与えられています。

私たちが誰かを赦すよりも前に、

神が私たちを愛し、私たちを赦してくださいました。

神の言葉である、イエス・キリストを通して、

あなた方は日々新しく造り変えられているのです。

ですから、私たちは、神の言葉を聞いて、

神によって日々、変えられていくことを通して、

神が喜ばれる者となることが出来ます。

それは、危険なことかもしれません。

神の言葉を聞き、

神によって強い促しを受けてしまったならば、

生き方を変えていかなければいけないのですから。

考え方を変えていかなければいけないのですから。

敵を愛し、妬んでいた人のために祈り、

赦せない人を赦すように促されるかもしれないのですから。

それを心から行いたいと願うように、

神の働きを通して、変えられてしまうかもしれないのですから。

そうです、私たちは危険と隣り合わせで、神の言葉を聞いています。

でも、その危険の先にあるのは安息だと、

神は約束されています。

あなたがより良く生きるために。

あなたが神の民としてふさわしく生きるために。

あなたが喜びのうちに、安息を得るために。

神は、いつも心からの愛情をもって、

あなたに語りかけ、あなたを日々、造り変えたいと願っておられます。

深い慈しみをもって、信仰者の群れである教会を

神はいつも造り変えてくださいます。

もしもあなた方が、神の言葉に刺し通されるならば、

あなた方は神によって変えられていきます。

それは危険なことに思うかもしれません。

しかし、それは、最終的にはあなた方が喜びに溢れるために、

神があなた方に対して成し遂げたいと願う、神の恵みの業です。

ですから、神の言葉を聞くとき、

私は神に心からこのように願いたいのです。

「神よ、あなたの語りかける言葉によって、

私の心を、魂を、私の全存在を刺し通してください。

それによって、私を、そして私たちを、教会を、

あなたの民に相応しく、整えてください。

イエスさまに似た者に私たちはなりたいのです」。