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「イエス・キリストの名を呼ぶ者」

名前を呼ぶと、その相手がはっきりわかります。

その名前を持った存在は、人も、物も、場所も、知っている人には、

その名前と一緒に、思い出されます。

名前をつけるということを最初にした人間は、アダムです。

この人は神様が天地万物の中でたった一人、最初から神様と会話しながら、

神様の創りなさるもの一つ一つに名前をつける仕事をしました。

ですから、蛇に蛇と言う名前をつけたのも、アダムだと思います。

名前をつけること名前で呼ぶことは、その存在がそこにいる、と知ること。

その存在に働きかけること。そして、

その存在からの働きかけを感じて、認識することです。

 きょうの聖書箇所で、ペテロたちに大祭司は

「何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」

と聞いています。 ああいうこと、とは、何でしょう?

これは、きょうの箇所の前の章、使徒言行録3章4節から8節 で、

ペトロたちが聖霊によって行った奇跡です。

 ペテロが、神殿の入り口の門の前にいた、生まれつき歩くことができない人に、

「金銀は私にはないが、持っているものをあげよう。ナザレの人

イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」と言って起きた奇跡。

40歳を過ぎた男性が癒され、生まれて初めて歩き踊りまわった、という

事実のために、ペトロとヨハネは大祭司の前に出頭させられました。

先ほどの言葉は、出頭したペトロ達に、大祭司が放った質問です。

この歩けるようになった人は、踊りあがり、使徒たちと共に

神殿に入って行きました。

躍り上がるほどに、この人は歩けるようになったことが嬉しかったのです。

うまれた時からこの人は歩くことができませんでした。

当時、障害を持っている人、特に生まれつきの障害を持つ人は、

神様から罰を受けていると考えられていました。

そのため、この人は神殿に入ることを許されていませんでした。

この人にとって、この癒しは神様が自分を認めて下さった。

愛して下さった、という喜びをも含むものだったのです。

生まれて初めて、誰にも遮られずに、普通にユダヤ人男性として、

神殿に入ることができたのです。

 この躍り上がっている彼が、門の傍の歩けずに施しを待っていた人だ

と気づいて、民衆が集まって来ました。驚いた人たちに向かって、

使徒たちはイエスを語りました。

3章に載っているペトロの話を聞いて、

男性だけでも5千人の人がイエスを信じました。

 この事態に、議員・長老・律法学者たちが、早速、招集されました。

当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。

大祭司はエルサレムの神殿を中心にした、ユダヤ人たちの宗教的代表で、

ローマからその宗教活動を公認されていました。

イエスが伝道し信徒たちが集まった時も、今、

使徒たちがイエスを語って集まってきているのも、

大祭司の支配の外側で起っていることでした。

 その上、使徒たちは、大祭司たちの裁判と

ローマ総督ピラトが決めた十字架刑で処刑されたイエスを、

神から遣わされた救い主であると語っているのです。

大祭司たちにとって、これを見逃すことはできません。

このように沢山の人が信じて、使徒たちの語るイエスを受け入れたと知って、

大祭司たちは反社会勢力が結集している、と考えたのです。

本日の箇所で起っていたことを、あえて信仰によらずに見るならば、

「十字架につけられた罪人を神として伝えることにより、

都エルサレムの中で、神の大祭司に 学の無い一般人二人が、

世間を騒がせ、騒動を起こしかねない者として連行された」ことです。

しかし、

その働きに神さまの働きが現れ、神さまの聖霊が働いていたのはどちら側か。

大祭司ではなく、明らかに使徒たちです。

神の霊の働きがあったからこそ、あの男性は立ち上がり、

5千人を超える人々は、イエスを信じたのです。

大祭司たちがローマから目を付けられる騒動として恐れていたことは、

その根拠を、イエス・キリストの名に置いていたのです。

 宗教的権威として、神を語ることのプロであり権威であった者は、

起こっている事の先に神の意志があることに気づかず、

イエス・キリストの名を軽んじ、語ることを禁じました。

大祭司一族は、ユダヤ人の国を建て上げる責任を持った者。

イエス・キリストは、4章11節にある、建築の専門家によって、

役に立たないとして棄てられた石のようです。

しかし、イエスの名は、すべて神の国を目指す者、神を信じる者、

神によって用いられる者にとっては、最も大切な名です。この名こそが、

大切な、神の救いの計画の根拠であり、その基礎なのです。

家を建てる時、その堅固な基礎を作るために、最も重要な、隅を支える親石。

イエスに出会った使徒たちも、使徒たちから

イエスについて聞き、信じた人たちも、この大切な信仰の親石をみつけました。

しかし、御業を現す神を制限しようとするアンナスとカイアファたち大祭司の一族はイエスを認めませんでした。彼らは救い主を十字架刑に追い込みました。

ヨハネによる福音書11章50節で、カイアファは

神の霊に突き動かされて、神によって大祭司として、言葉を発しています。

「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びずに済むほうが、

あなたがたに好都合である。」と。彼は、自分が神から神の言葉を託されて語っていたことを、自分で理解していません。神は、この、神を見失った大祭司を、その職務のゆえに用いて、正しい神のご計画を預言する働きをさせたのです。

この預言によって、イエスを殺す計画は進み、神の子の十字架上の死による

民全体の救いを、実現する方向で、神はこの大祭司を用いられた。

カイアファは、自分が発した言葉が 預言であったとは気づかず、自分たちが自分たちの権威を守るためにしたイエス殺害に、神のご計画があることを理解しないまま、今度は聖霊なる神によって語るペトロたちに問うのです。

その行為は、何の権威を理由にしているのか?

何の名によって行っているのか?と。

いま、聖書を読む、イエスを神の子と知っている私たちは、

大祭司カイアファの知らない事実を知っています。

この名によって起ることには、明白な神の意志が働いている、ということです。

 本日の旧約聖書の箇所、申命記には、主なる神に従わない者、

他の神々に仕える者は、必ず滅びる、と書いてあります。

神の名、信じ従うべき方の名を認めないことは、滅びに繋がります。

 国を建て上げる責任を持っていた大祭司一族。彼らが捨てた石、

イエス・キリストによって支えられた神の国は、すでに来ている事、

神による支配の時が、すでに回復され、天の国は私たちのところに来ていることを、イエス・キリストはその宣教のはじめに宣言されました。

「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

神に選ばれた民としてのアイデンティティーを持って

歴史を繋いできたユダヤ人の、約束の民の国の聖なる権力を委ねられたはずの大祭司一族は、神の計画を見失っていました。

彼らは神の子イエス・キリストが来られた時、この方が

自分たち人類のために、神との関係回復のための捧げものになられ、

その目撃者になったはずでした。しかし、

ゲッセマネで逮捕された救い主イエスが自分の家の庭に連行されてきても、

そのことの意味に気づくことができませんでした。

大祭司の役割は神と人を繋ぎ、人々に神の御心を伝えること。

真に従うべき方を見失った祭司一族は、

自らが地上の権威にしがみついたばかりか、地上の支配者ローマ帝国を恐れ、

イエスの名による宣教を禁じることで、自らがすでに、

神のためにも民のためにも働いてはいないことを、明らかにしました。

使徒言行録4章を読んでいくうち権威あるはずの大祭司と権威を持つはずのないペトロとヨハネ。すでに、神の前の立場が逆転していることが感じられます。

ペトロが19節で言い切ったように、神に従うか人に従うか。

どちらが神の前に正しいのか。ペトロはあえて、

「考えて下さい」と言いましたが、考えるまでもないことです。

神の働きは彼らの前に明確に示されていたのですから。

このイエス・キリストの名以外に、頼るべき信じるべき従うべき名は無いのです。

この名によって呼ばれる方こそが、真に権威を持つ方なのです。

名前で呼ぶことは、その存在がそこにいる、と知ること。

私たちはイエス・キリストの名を呼ぶ者として、この方によって救われた者として、存在しているのです。

名を呼ぶことは、その名を持つ方に働きかけることです。

その存在からの働きかけを感じて、認識することです。

キリスト教徒と呼ばれることは、この名によって生かされることです。

私たちを生かし、用い、力を与えて下さる方を見失うことなく、

信じてまいりましょう。

 

お祈りいたします。