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「再臨に向かう希望」

テサロニケは、今のギリシアの北部、海辺の街です。
パウロは第二回伝道旅行の時、はじめて
アジアからヨーロッパ大陸にあるマケドニア州での伝道をはじめ、
マケドニアでの伝道地としてはフィリピの次、2番目にテサロニケを訪れました。
 テサロニケは、今でいうギリシアの都市で、テサロニケのあるマケドニア州は、
ギリシア神話の神々を崇拝する人々が住む地です。
この地の人たちにとって、神とは神殿に置かれた偶像に象徴されるもので、
神に仕える、とは、その偶像の置かれた神殿を運営することを意味していました。
神殿に行き、神に捧げものをする。神殿への奉納物はその神の護りを金で買うようなもの。多くの神殿に捧げものをすることで神に護られる。
捧げものをすることで、その神は自分の味方になる。
神は人間の側からアプローチするもの。それがこの土地の人々の信仰でした。
 パウロがテサロニケで語った神は、人のため自ら十字架で犠牲になる神。
人の罪のために苦しみ、それによって人を救う神でした。
人が神の死によって救われ、その神が死から復活し、人に永遠の命を与える、
という福音は、テサロニケの信徒たちにとって驚きであり、喜びでした。
彼らはキリストの教えを学び、彼らの真面目で熱心な様子は、
マケドニア州のほかの街でも南のアカイア州でも信徒たちの間で
話題になるほどでした。 その、話題の内容について、
パウロは改めて9節以降で、大切な3つの点を強調して書いています。
テサロニケの信徒たちがいま、
偶像から離れていること。
生けるまことの神に仕えていること。
信仰によってイエスが彼らに与えた彼らの希望が、どのようなものであるか、ということです。
偶像を避けることは、この街では、気を付けなくてはいけないことでした。
崇拝する対象が目に見えるということは、人間にとってとても簡単で分かりやすいことです。自分の足で歩いて近づくことができる神。行けば、そこにいる。
こう考えると魅力的でさえあります。
わかりやすく眼に見える、ということは人生の手本としては悪いことではありません。しかし、キリストが天に昇られたあと、霊として共におられる神を信じる者にとって、神とされる偶像があちこちにあるこの環境は厳しいものでした。
しかし、福音を受け入れたテサロニケの信徒たちは理解するようになっていました。歩いて行かなくては会えない神は、人が気にしなければ、いなくても同じな神。その場所から動かない偶像の神は、人が選ばなければ影響しない神です。
 イエス・キリストは人々の中に入って行き、顔を見て話すことのできる人として、この世に来られた神です。ご自分の言葉で話し、人々とともに歩き、
人として涙を流し、怒り、弟子たちを 海を 風を叱る方です。
十字架で血を流し、その死から復活し、生きた者として地上を歩き、
その体のまま、天に昇られた方です。
パウロたちの時代、キリストを目撃した人は、実際に居ました。
パウロは自分が彼らに語ったこの神は、人々の記憶の中の思い出ではなく、
再びこの地上に帰ってこられる、と、約束された方であることを確認しました。
イエスが再び来られるときは、この世の終わりと考えられています。
終わりの時に、神の裁きが行われ、信じて救われた者たちと、神を信じなかった者達が裁かれる、と。
 テサロニケに住んでいた人々は、いろいろな点で日本人と似ています。
会いに行かなくては会えない神を信仰し、日常の苦悩や不安を取り除くために、ひたすら捧げものをし、死を迎える時もその向こうに、無や永遠の刑罰があると考えて不安を感じる。人と対話することのない偶像を神とするとき、不安への答えは人々の口を通して憶測で語られるのみで、偶像の神々は明確な約束を与えることはありません。
命も生も死も、神が創られたものです。
パウロがこの手紙で確認したのは、キリストの救いが人の罪のためであり、
人の罪が赦されるということは、終わりの日の神の裁きにおいても、
赦された者たちは神の怒りを受けることは無い。
キリストの十字架による救いは、いま、私たちが持っている罪、これまでに犯した罪だけを赦すものではない。
キリストの十字架の贖いは、信じた者の全生涯を通じて働く救いをもたらすのだ、ということ。
この、全生涯にわたる救いに福音を、テサロニケの信徒たちは信じて、
その福音によってキリストの再臨を待ち望んでいるのです。
 きょうの旧約聖書の箇所は、イスラエルの民が捕囚となった
バビロンで聞いた、預言の言葉です。
この預言、神からの言葉は、約束の言葉でもあります。
捕囚の民は、やがて約束の地に戻ることができる。
異邦の民の中にあっても、神は彼らと共におられる。礼拝する彼らのところに、神は自ら聖なるものとして存在される。
彼らが故郷に帰る時、彼らは神に従って歩み、彼らは神の民となる。
神は、彼らの神となられる。
 このエゼキエル書において、帰ってくる神の民が行うことが18節に書いてあります。あらゆる憎むべきもの、あらゆる忌まわしいものを、その地、神が神の民のために与えた地から取り除く、と。
エゼキエルの預言の中で、神のおきてに従って歩むものを邪魔するもの、
彼らの信仰を阻害するものが約束の地エルサレムにあったのです。
神の民となった者達の目を、神から逸らすもの。真の神に仕える彼らの熱心を
邪魔するもの。それは、エルサレムにいた人々がつくり、立てていた偶像でした。
神を信じる者のそばに偶像があることは、彼らの信仰を弱め、
彼らの熱心を失わせます。
神の約束は明確です。私たちは神の民です。
 パウロがテサロニケの信徒たちに書き送ったように、
信じる者が仕えるのは、生ける真の神です。
そして、神が世の終わりに行う裁きの時に至るまで、信じる者を完全に救う方。
神の怒りを受けることのない者としてくださる方は、
死者の中から復活した神の御子 イエス・キリストです。
 私たちは、テサロニケに住んでいた人々と同じように、沢山の偶像、
沢山の神の中に住んでいます。
人の思いを越えた何か、尊いと感じる何かを見ると、
すべてに「神だね」と言う人々の中にいます。
この国の人たちは、当たり前のように美しい風景を神にします。
思いがけないよい行いをした人、努力して尊敬すべき成果を上げた人を、
神だと言って褒め、大切にします。
尊いものを大切にすることは良いこと。ですが、それが神になる。
そういう国に、私たちは住んでいます。
聖書の時代のマケドニアで人々があちこちの神殿に捧げものを持って行った
ように、私たちの住む国には沢山の秘境があり、人が訪ねてゆく神、
探してみつける神がいるのだそうです。
真の神、生ける神はただ一人。私たちの主、イエス・キリストを遣わされた神は、人から探される神ではなく、悩みや苦しみの中に迷う人を探して、
ご自分のところに連れて帰って下さる神です。
 私たちが礼拝するとき、私たちの目を逸らすのは何でしょう?
私たちに約束された、永遠に続く完全な救いを阻むのは何でしょう?
世界が終わる時が来ること。世も末だと感じること。
自分たちの今の暮らしは、よい状態には無いと考えること。
私たちの考えをマイナスにする考えは永遠の希望には繋がっていません。
私たちが前に進むことを恐れてしまう考えは、私たちにキリストが与えて下さった、世の終わりまで変わることのない希望に繋がってはいません。
神が創られた時間というものは、世の初めから終わりに向けて、まっすぐに進みます。決して後戻りすることは無い。決して、同じ繰り返しはおきないのです。
 私たちは、生ける真の天地万物を創られた、唯一の神によって、
この永遠から永遠につながる時の中に置かれました。
私たちを時の中に置かれた神は、私たちを置き去りにする神ではありません。
私たちが話しかけたり会いに行かなければ会えない神でもありません。
まっすぐに進む、人間には止めることも変えることもできない時の中に、
神の聖なる霊によって守られて私たち人間は生きています。
 私たちは、確かに自分たちの未来を見ることも知ることもできません。
けれども、私たちには、終わりの時まで続く完全な救いがあります。
見えない未来を恐れて、緊張したり縮こまったりする必要はない。
なにしろ、私たちには見えない未来を、完全に保証して下さる方が居られます。
この方は生ける全能の神の子で、人のために死んで神が怒りを下すべき罪から、
私たち人を完全に救ってくださった方です。
 私たちは永遠に続く約束を与えられました。
私たちは、ただ、最後まで残されている一つの約束に期待して、待つ。
その待つ力を、与えられることを願い、
怖がらずに、永遠の救いに感謝して、毎日を生きるのです。
私たちは、約束して下さった方を、待っているのです。
再臨の時、天から来られる方。また戻ってくると約束した方、
私たちの救い主、イエス・キリストを。
まっすぐに、隔てられることなく、約束を信じて、進んでまいりましょう。
お祈りいたします。