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「他人の召し使い」

信仰の弱い人を受け入れなさい。
ローマの信徒への手紙14章はこう始まります。弱さと強さは、
その人が何に拘っているか、または拘っていないかであらわされています。
食べる物について、食べてよい食べてはいけないと拘る考え方は、使徒言行録でペトロが見た夢の話が思い出されます。幻の中で、天から降りてきた大きな布の中に、ペトロにとってゲテモノでしかない生き物がうようよといて、
神から「それを屠って食べなさい」と言われた。あのペトロの夢です。
あの時は、異邦人コルネリウスの救いにつながる差別問題に関係していました。
でも、現代でも、豚肉を食べてはいけないという考え方、肉や魚を食べることは自分の体を汚すという考え方は現代の日本にもあります。
キリスト教の中でも、お酒を飲んでいいのかいけないのか、
考え方の違いや習慣の違いはあります。
 食べ物だけでなく、衣服について。牧師や神学生は、礼拝中はガウンまたは黒いスーツが正しい服装であると考える人。礼拝は衣服がするのではないからたとえばティーシャツとジーンズ、カラーのブラウスとミニスカートでも
問題ないと考える人はいます。
 14章の5節以降には、日付への拘りが話題になっています。
記念日や教会歴の中の祭礼の日取りを大切に考えるか、全く気にしないか。
私の友人で、今80代ある女性は、クリスマスやイースター、その他、
記念と思う日には、着物を着て礼拝します。
 14章のはじめで、「信仰の弱い人」とパウロが表現したのは、拘りを持ち、
その拘りを守ることで自分の信仰を保っている人のこと。
拘りを持つことは弱いことだから駄目です、とは言っていません。
拘りを持つことで、その人は信仰を保ち、神への熱心を表現しているのです。
また、拘りを持たないことも責められてはいません。
拘らないことそのもので、神への信仰を表現しているからです。
 問題なのは、強さ弱さではなく、自分とは違う生き方、拘りかたの人を
裁くこと。自分の価値観と違う人の存在を、受け入れるのではなく、
違うことを理由に、相手をクリスチャンとして不適格である、間違っている、
その生き方は問題行動であると考えること。
さらに、その考えによって相手を責めることです。
 自分にとって正当であると考える生き方をしていない人を責めること。
このことのほうが、同じ神を信じる者としては問題行動です。
信仰が違う場合、信じる宗教が違う場合、信仰自体を持たない人である場合は、このローマ信徒への手紙14章の「裁く 裁かれる」関係とは違う次元、
違う土俵にいます。信仰の違いが差別や戦争を生む危険は現代にもあります。
信仰が違う場合、共に同じ時代を生きる者として、その人の生活をその人のものとして敬意を持って見守るべきと考えます。その上で、
自分の信仰を押し付けるのではなく、距離を保ちつつ、
その人が私たちの神に出会う時を願う。その祈りは続けたいと思います。
14章では、同じ神への信仰を持ち、イエス・キリストによる救いを経験したクリスチャン同士が、互いの違いを指摘しあい、拒絶しあうことを話題にしています。互いに裁きあってはいけない。
なぜ、いけないのか。それは、越権行為だからです。
 わたしたちはクリスチャンです。イエス・キリストの福音を信じ、自分の罪をキリストの十字架によって赦していただいた者。キリストの死によって自分も霊的な死を経験し、キリストの復活によって
自分も永遠に続く神との関係の中に置かれていると信じている者。
生きていることそのものが、自分のためではなく、命も魂も、
キリストの十字架によって神に買い取られ、神の所有となった者です。
 目の前に居る、自分とは考え方・生き方が違う人は、
自分の僕や召し使いではなく、神の僕であり神の召し使いなのです。
この人の生き方、考え方はヘンだと感じることはあるでしょう。
一般社会の法律や、聖書に照らして、間違った、常識はずれな生き方をしている場合、注意したり指導したりが必要な場面はあるかもしれません。
けれど、その人が自分とは違う拘りを持っているからと言って、
「この人は間違っている」「この人はクリスチャンではない」
「この人はダメな人だ」と言うこと。それは、私たち自身が信じ、救われた
キリストの十字架による救いが、その人には及んでいない。
その人にとってキリストの十字架は無意味だった、と、言っているのです。
 その人は、あなたの所有物ではありません。神の愛する一人の人です。
その人は神に仕える人であって、あなたに仕えてはいません。
その人を生かすのも殺すのも神の力です。
弱っている人に寄り添い、励ますことは良いこと、正しいことです。
けれども、その人が元気になるのは、あなたの力ではない。神の力です。
 同じ神を信じ、キリストの救いを受け入れた仲間として、祈りあい、支えあうことは素晴らしいことです。私たちに祈る心を与え、その祈りを聞く方は、
私たちが神の家族のため、友のために祈ることを喜び、受け入れて下さいます。
仲間が、歩き出す力が出ない時、心配すること声をかけることは良いことです。主にある家族としての愛情からくる行動です。
 本日の旧約聖書の箇所には、裁判沙汰になった場合や、
敵対している場合の人間関係が出てきます。訴訟を起こすほどの問題を抱え、
反目しあい、思いやりある言葉を使うことが難しい関係がある場合。
お互いに会うこと、話すことだけでも心理的に負担を感じる関係性というのは、残念ながらあるものです。
しかし、関りを持つことを喜べない場合も、相手について嘘の証言をすることは不正であるばかりか、互いの問題を拗らせ、大きくしてしまいます。
また、もし、自分が相手にとって不利益であること、困ることを見つけた場合、
その問題を放置することも、互いの関係を平和に落ち着く方向には導きません。
たとえ争っている相手のものであっても、牛やろばが、迷い倒れていたら助ける。相手に状況を知らせ、問題を知っている者として一緒に解決にあたる。
そこに、利害関係を越えた信頼が働きます。好き嫌いを越えて信頼を得るなら、
問題の解決もより、たやすくなるでしょう。
 人間同士、友人同士、家族の一人一人が向き合う時、どんなに近い関係でも、同じ考え、価値観で生活し話しているとは限りません。あたりまえのことです。
私たちはそこに、神から遣わされたキリストが居て下さること、人と人の間に、常に神が関わって下さり、人間同士だけの関係のようでも、
そこには聖霊が関与して下さる。常に神は、私たちに関心を持っていて下さる。
キリストの十字架は神と人の関係を回復して下さいましたが、
この回復の恵みは、人と人、人間関係にも関与して下さる恵みなのです。
 人と人が結婚し1つの家庭を共同で作ってゆく時、
そこにキリストへの信仰があるなら、神を信じる者同士の結婚であるなら、
その家庭には神も共に居て下さいます。
クリスチャン家庭の結婚式で、3人の結婚、という表現があります。
夫と妻、そしてただ お一人の神。この3人。夫と妻の両方を愛し、守り導く
神が共に居られることで神の愛あふれる家庭は築かれるのです。
夫婦のみならず、人と人が関わる時、そこに神の霊が伴って下さる。
その時、人同士だけでは乗り越えられない関係に、神の愛が働いて下さいます。
大人として、責任感ある人格として、互いを思いやる受け入れあう関係には、
人の性質の中にある小さな傷も癒しつつ、結んでくださる神の愛があるのです。
 人と人の関係についてお話してきました。
もう一つ、私たちが他人の召し使いを裁いてしまう可能性が残っています。
人と人、それぞれは神の僕であり、人を裁くことは神の僕を裁くこと。
目の前の人は、自分ではなく神の、僕である。
人はすべて、キリストの十字架によって神の僕、神の家族とされました。
人とは、私たちすべて。もちろん、私自身も。
私たちは、よく、「自分の事は自分が一番よく知っている」と言います。
そうかもしれません。でも、あなたは、神のもの。
あなたが何者であるかは、神が導かれた結果なのです。
 ローマの信徒への手紙14章の4節を、少し変えて読んでみましょう。
「神の僕である自分を裁くとは、いったい私は何者ですか。
私が立つのも倒れるのも、神によるのです。しかし、私は立ちます。
主は、私を立たせることがおできになるからです。」
私、と言ってお読みした場所に、ご自分の名前を入れてお考え下さい。
 あなたは、ご自分が好きですか?
好きだとしても、嫌いだとしても、
神がキリストを犠牲にしてでもあなたを取り戻したかったから、
キリストはあなたのために十字架にかかり、あなたのために死んで陰府に下り、
あなたに永遠を約束するために、復活し命あるものとして天に昇られました。
ただ、神があなたを愛しているから、
この救いを受け入れたから、あなたはクリスチャン。神の僕です。
神が、あなたを立ち上がらせ、歩かせてくださいます。
お祈りいたします。