「キリストの真実」

 パウロは、コリントの人たちとキリストとの関係を、結婚に喩えました。
そして、神がコリントの人たちについて、まるで結婚式を控えた夫が
花嫁に対して持つような熱い思いを、持っている。と、言ったのです。
パウロはコリントの人たちを純潔な処女として一人の夫と婚約させた
、と表現しました。
純潔な処女。この表現をコリントの人たちに使うことは、聖書のコリントの信徒への手紙を1も2も読まれた方は、苦笑されるかもしれません。
コリント信徒への手紙は、新約聖書の中で、最も書かれた年代が古い書物です。
そして、1は、実生活の中の問題について書いています。
読む私たちには、こんなことまで聖書として、後の時代の私たちにまで
知られてしまったコリントの信徒たちが気の毒になるほどです。
コリントの教会では、彼らに福音を語るために来た宣教者たちやキリストを、
まるでアイドルのように扱い、自分の好みの福音を語る人を、クリスチャンとしてではなくファンとして好みで選び分け、派閥がうまれていました。
アイドル、と言いましたが、この言葉自体もとはギリシア語で、偶像という意味の言葉です。パウロは第1の手紙で、彼らの考え違いを丁寧に指摘し、
キリストこそが救い主であり従うべき方であることを教えました。
 生活面でも、コリントの人々には問題がありました。
コリントという土地はよい港のある商業都市で、豊かな土地でしたが、その分、
生活の乱れた土地柄でした。この乱れが、教会内にもあり、夫婦、親子の関係が乱れ、パウロから許すわけにいかない、と言われるほどでした。
 パウロの宣教と手紙によって、彼らは生活と信仰を改めたのですが、
きょうの箇所のように、新たな2つの問題に直面していたのです。
 一つは、彼らがキリストを信じ救われた時、パウロから聞いた福音と、そのあとでコリントに来た人々が語る福音の内容が一致しておらず、彼らの信仰が揺さぶられていた、ということ。
もう一つは、パウロが彼らに聖書を教える時、その報酬をコリントの信徒たちに求めなかった、ということ。
この問題の中にあった彼らに、パウロは、あなたたちを純潔な処女として、一人の夫、キリストと婚約させたのだ、と、言ったのです。
 結婚式をテーマにした歌謡曲の中で、
「かけがえのないあなたの、同じだけかけがえのない私になる」というフレーズがありました。言うまでもなく、一夫一婦制を前提とした関係では、
夫と妻は、ただ一人その人だけ。One and only の存在です。
夫婦の関係を不安定にするものとして、言行不一致と金銭的問題が挙げられます。One and onlyの関係をOne of them にしてしまう浮気は、もともと論外ですが。
 パウロが語りコリントの人々が信じた福音が、パウロよりも後から来た人々の語る福音と違うことで彼らの信仰が揺らいだ。
パウロは手紙の内容は重々しくてもっともらしい。けれど、
自分たちの所に来たパウロの話を聞くと、話し方は素人でつまらない。
パウロよりも後から来た人たちのほうが、話し方が上手で、人間的にも魅力があるように感じる。
語られている内容が正しいかどうか、判断しての行動ではありませんでした。
パウロは、自分の口下手を自覚していますが、知識については、
コリントの人たちを引き付けた宣教者たちにひけはとらない、と言っています。
 その宣教者たちが、具体的にどんな福音を語っていたのかはわかりません。
けれど、パウロがコリントの人たちに福音を語る時、そのための報酬を求めなかったことが、パウロの罪であるかのように言われていた様子が覗えます。
 私自身、牧師を仕事としており、金銭的には教会の献金から生活費を与えられている者です。この献金は、教会員お一人お一人、そして私自身も捧げた中から、
教会の活動を維持し、教会堂を維持するために祈りをもって用いられているものです。献金は、賽銭や参加費、登録費などとして支払われるものではなく、
捧げる者が一人一人の信仰の表れとして捧げるもの。
献金する、という行為は、自分自身を神に捧げることの現れとして、自分の労働の対価として得た収入、つまり自分自身の努力と行動、その労働にかかった時間もすべて、神に捧げ、遣わされた場所での働きを、神のためのものであると、
確認し捧げる行為です。
 パウロは、コリントの信徒のために働くとき、マケドニアの教会の信徒によって捧げられた献金によって、生活を維持していました。
その献金は、さきほど私たちの献金についてお話したように、マケドニアの信徒たちの信仰の現れでした。
あの、11章5節でパウロから大使徒と皮肉られた人たちは、話すたびに彼らの活動のためと言って、献金を集めていたのでしょう。
楽しく面白い聖書の話を聞いて、献金する。そこにキリストへの信仰と献身が
無いのならば、それは芝居やコンサートで払うチケット代や木戸銭と変わりません。また、パウロが話すとき、同じようにお金を集めないからと言って、
パウロが自分たちを差別している、パウロは正しい宣教者の態度をとっていない、というのは、すでに本末転倒です。
11章12節から15節でパウロは言っています。聞いている人たちの信仰を強めること、霊的に養うこと、キリストの贖いと永遠の命への希望を語らないなら、キリストの真実に根差した福音が語られるのでないなら、その説教者はキリストの使徒ではありえない。
聖書の言葉を語っているからと言って、すべてが神の業ではない。
もし、金銭的欲求を満たすために語るのならば、たとえ内容が聖書からの話であっても、それは福音宣教ではない。
語ることによって自分の利益、人間の欲求を満たそうとしているのなら、
宣教者として立てられていても、その目的がキリストの真実を根拠としていないのならば、その終着点はサタンと同じ、滅びに向かうものとなってしまう。
サタンも光の天使に偽装する。これは、とても恐ろしいことです。
 現代でも残念ながら、宣教のために立てられ任命された牧師や宣教師が、
いつしかその本分から迷い出てしまい、福音を語る器としての働きをしない者となってしまう事態は、無いとは言えません。
 説教者が本分である神の言葉の取次ぎをし続けると同時に、信仰者が聞きやすい話を探し、自分の信仰の養いを求めないなら、
花嫁として婚約したキリストへの真実の愛をもって、信仰を表すことをしないならば、私たちの信仰は無意味なものとなり、救われて辿りつづけてきた永遠の神の都につながる道から、逸れてしまうのです。
天の国への道は、キリストという名の一本道です。
この道以外に救いはない。永遠に続く命の道は、一つだけです。
 きょうの旧約聖書の箇所は、箴言25章です。
神は、私たちに信仰によって従うことを求めています。
これから起こることを人間には教えず、これまで起こったことの意味は、信仰によらなければ、神の時が来なければ理解できないようにされる。
理解できること、目で見て肌で感じてわかることは、信仰を必要としません。
私たちが神に信頼し、神がすべて御心のままに行うことを信じる時、私たちは
平安を与えられ、御心に適う生き方のための力を与えられます。
箴言25章4節。銀細工人が器を作る時、銀に不純物が混じっていると、成型することはできず、たとえ形をつくってもすぐ、壊れてしまいます。
私たちが、神に遣わされ与えられた仕事、与えられた働きのために用いられるために、私たちが神への不信感を持っているなら。
私たちが神に近づこうとする目的が、自分の利益、自分の満足であるなら、
私たちは神のための働き人とはなれない。目的に混じる不純物が、神への熱心を邪魔するからです。
 パウロは、この不純物を取り除かれた状態、神への真心を、純潔な処女が夫を想う、愛情の真実として表現しました。
仕事上の成功を夢見ることも、日々の生活の中の不安に心が向いてしまうことも、そのこと自体は人として間違いではありません。
体の痛みや明日の不安も、持っていること自体が問題ではありません。
そこに、キリストへの期待があるかどうか。
そこに、神の力が働くことを、期待しているかどうか。
私たちの命を与え、守り、支えて下さっている方が、私たちを心配して下さることを、期待し願い、求めているかどうか。
苦しみや痛み、悩みを、神に働いていただく機会と考えるか、
自分一人で解決すべき、人生の課題と考えるかどうか。
神から愛されていることを遠慮なく喜び、遠慮なく助けを求める。
その時、神がたとえ将来を見せてはくださらなくても、神への信頼によって、
希望が与えられます。
 神は、私たち一人一人を、かけがえのないものとして、愛していて下さいます。
神の思いと同じだけ、私たちが神を、かけがえのない方と思う。
これは、私たちは弱い、迷いやすい者ですから、難しいことでしょう。
でも、私たちを終わりの日に、花嫁として迎え入れて下さる方は、
私たちのためにご自分の、キリストの真実をもって愛し導いて下さる方です。
私たちの、いま、表すことにできる心からの愛をもって、
信頼し、神と共に生きる道を、進みましょう。
お祈りいたします。