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「救い という 名」

 イエスという名は、「神(ヤハウェ)は救い」を意味するユダヤ人の男性名。 原語であるヘブライ語ではヨシュア(יְהוֹשֻׁעַ‎ イェホシュア / יֵשׁוּעַ‎ イェシュア)。 当時のユダヤ人としてはありふれた一般的な男性名です。
現代でも、この名前を持つ人はイスラエルにはよく、いるそうです。
名前を名乗るだけ、名前を呼ぶだけで神への信仰を表す名前です。
来週から今年の待降節が始まります。私たちは今年も、
私たちの救い主が約束通り、一人の小さな赤ちゃんとしてこの世に来られた日を祝う、その準備の時に入ります。
私たちが毎年、この時を待ち望み祝うのは、イエス・キリストが神の定めた計画に従って、与えられた役割を果たして下さったことを知っているから。
その果された約束によって私たちがいま、この方の誕生を、自分たちの救いのための約束が完成したことの記憶として受け止めることができるからです。
 日本語に、名は体を表す という言葉があります。
私たちの祖先、最初の人アダムは土の塵から創られ、土を意味するアダムという名を与えられました。私たち人は、彼の子孫として生まれ、やがて死ぬと土に帰ります。アダムは神によって創造された被造物たちに名前を付け、今もすべての生き物には発見され次第、名前が与えられ、その名前はその生き物の存在そのものを表します。
 私たちは私たちの神の子の名を、イエス・キリストと呼びます。
イエスは「神 ヤハウェは救い」という意味。
キリストは救い主 救世主という意味です。
私たちはこの方の名前を、幾度も呼び、この名前によって祈り、
この名前によって救いを受け、この名前によって神に招かれています。
 母の胎に宿る時から、自分の民を救う者として与えられたこの方は、
人として生まれることによって、信じた者たちに
「神は我々と共におられる」ことを経験させて下さいました。
神の国に入るために、幼子のように素直であることを教えたこの方は、
全く無防備な赤ちゃんとして人間の母に宿り、どんな小さなきっかけでも命が脅かされてしまう弱い存在としてこの世に降られました。
弱く小さな赤ちゃんに対して、マリアもヨセフも、羊飼いも博士たちも皆が
イエス様、と呼びかけました。
彼らの場合、意味を知らないまま呼んでいるわけではありません。
あなたこそ、「神は救い」と呼ばれる方です、と、大切に育てながら呼び続けたのです。イエスの生涯には、イスラエルの歴史が凝縮され、救いの歴史が現れています。
マタイによる福音書1章21節で天の使いがヨセフに子どもの名を付けた時、
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と、伝えたのはこの名前が意味するところから来ているのです。
旧約聖書ヨシュア記では、モーセの後を継いでイスラエル人たちの指導者となったヨシュアには、彼の名前は神の約束を思い出させ、力づけるものでした。
ヨシュアの人生は、戦う相手の国を恐れ、共に旅してきた仲間はモーセの時と同じようにしばしば、神の言いつけに従わず、神の御心を知ろうと祈り、神によって戦う日々でした。神に呼ばれ、人々に呼ばれるたびに、その名前が彼の耳に入ります。ヨシュア「神は救い」と。これはヨシュアに、力強い神の約束を思い出させる名であったことでしょう。
 イエスと同じ名前を持つヨシュアが、神が約束された土地にイスラエルを定住させるための戦いを続け、それぞれの民族の土地が定まりました。
けれども、ヨシュア記の最後、24章において、ヨシュアはイスラエルの人々に対し、自分の信じる神を主なる神にするのか、約束の地で異邦人たちが信仰してきた偶像の神にするのか、決めなさいと迫り、「私と私の家族は主に仕える」と、
改めて宣言しています。
主なる神を救いであるとして戦ってきたヨシュアと共にいても、まだ、神への信仰を強く持つ事ができなかったイスラエルが、24章になってもいたのです。
やがて約束の地で、イスラエルの王国が栄えます。けれどもその王国も神に従わない王がたびたび現れ、北のイスラエルと南のユダはそれぞれ、
自分たちが与えられた土地から引き離され、捕囚となります。
エレミヤがやがて捕囚となる民に向かって、神からの救いの約束を語ったのがきょうの旧約の箇所です。
エレミヤが神から預けられて語る言葉の中で、「主は我らの救い」と呼ばれる方は、ダビデ王家に神が与えられる新しい王として現れ、正義と恵みの業を行う方なのです。
 ヨハネによる福音書18章では、神が、御自らが救いである、という名を与えて生まれてきた子が、人々の前で裁判を受け、判決によっては生死がきまる局面を迎えていました。
イエス・キリストの役割が果たされることは、誕生よりもさらに過酷でした。
ピラトは、大祭司から「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」という言葉で、イエスの身柄を大祭司から引き渡されました。
ユダヤ人の国をローマ帝国の属国として治めていた総督ピラトは、これまでにもいろいろな罪で捕らえられた人々を裁いてきました。
ピラトから尋問を受ける時には、死刑になるか、むち打ちなどの死刑よりは
軽い刑で済むのか、ピラトの決断が待たれていることを、彼は知っていました。
この尋問で、ピラトに真理について疑問を持たせたのはイエス一人だけです。
ルカによる福音書でピラトの尋問が出てくる23章では、ピラトはイエスをガリラヤの領主ヘロデの所に一旦、送致し、イエスはヘロデからピラトへと送り返され、取扱いは盥回しになっていたことが聖書に書かれています。
ピラトにとって、イエスがユダヤ教の律法でどう解釈されても、
総督としての自分の仕事には関係ないはずでした。
ローマ総督にとって無視できなかったのは、イエスがユダヤ人の王と呼ばれていたこと。さらに19章で、イエスが神の子と自称していたとユダヤ人たちが
ピラトに伝えたことでした。
 ローマ帝国において、神の子とは、ローマ皇帝を表す特別な名前でした。
帝国の中で、皇帝を差し置いて神の子と呼ばれる人物が出てくる。
その人物が人々の人気を集め、騒動を起こしている。これでは、
問題の地域で総督として責任を持っているピラトの立場が、危うくなります。
ピラトはイエスについての騒動が、むしろユダヤ人たちの側から起こっていたことに気づいていました。イエスについてピラトが疑問を持ったのは、イエスを連行した大祭司の手下たちも兵士たちも、ユダヤ人たちがイエスについてしている証言について、具体的な証拠は持っていないことです。
ピラトはイエスの言う真理が理解できませんでした。
また、ピラトはイエスが自分を罪に陥れようとする言葉にも、死刑になりそうな今の状況にも、イエスが反論しないことに戸惑っていました。
イエスがすでに、ゲッセマネの祈りの中で受け入れた役割が、主なる神の御心のままに進んでゆく、この神の愛のご計画は、ピラトにもユダヤ人たちにも、
見えてはいませんでした。
イエスの死刑を求めた人々は、ピラトがイエスを釈放しようとする行為は
ローマ皇帝への反逆になると言ってピラトを追い込み、
イエスの死刑は決定されました。 
こうして、ユダヤ人たちはイエス自身が弟子たちに語ったように、イエスを異邦人の手に渡し、異邦人であるローマの軍人たちはイエスを侮辱し鞭で打った後、
十字架に架けたのです。
ピラトには、処刑する罪人の罪状書きを書く仕事もありました。
ピラトは十字架でイエスの頭の上に掲げられる罪状書きに「ユダヤ人の王」と書きました。 ユダヤ人たちはこうして、自分たちの神の救いを名前に持つ方を十字架に架けました。ピラトの罪状書きによって、ユダヤ人たちは自分たちの王の死刑を見届けた民となりました。
 ユダヤ人の王として世に現れる、と、エレミヤが預言した方は、確かに、
ダビデの子孫としてマリヤとヨセフによって育てられ、王として人々の前で、
正義と神の恵みを実現するために、ご自身の民である全ての人のために、
十字架上で罪を贖われました。
私たちは、イエス・キリストの十字架によって贖われました。
十字架によって罪を赦され、救いと平安を与えられました。
エレミヤが預言したダビデの若枝は、確かに、現れました。
名前は、その名を持つ者の存在そのものを表し、与えられた役割をも表します。
イエスは、キリストとなるべく生まれました。
神は我らの救い と呼ばれる方が、全ての人を罪から救う救い主として生まれたのです。
私たちも、祈りのたびごとに、この方のお名前を通して主なる神に語り掛けます。
この先、どのような祈りを口にするときにも、
この名前を持つ方によって、神が行われた救いの業を思い出し、
この名前を通して、賛美と感謝をささげる祈りを続けてまいりましょう。
お祈りいたします。