· 

「これに聞け」

 

 ペトロが今日の箇所で目撃者として話しているのは、マタイ、マルコ、ルカが福音書に

書いていたことです。彼らはだれも、これが何処であったことか、具体的な地名を書いていません。ただ、高い山、とだけ。その時、イエスといっしょにその山に行ったのは、ヨハネとヤコブだけでした。山に登る目的を、ルカは祈るため、と書いています。

祈っているうちに、イエスの姿が変わり、着ておられた服も真っ白に輝いた。そしてそこに預言者エリヤとモーセが現れ、イエスと語り合っていたのです。何を話し合っていたのか。ルカはイエスがこれから経験する十字架について語り合っていた、と書いています。

はじめて私がこの箇所を読んだ子供の頃、疑問に思っていたことがあります。

ペトロとヨハネとヤコブは、なぜ、モーセやエリヤを見て、判ったのだろう。

ペトロが判っていたことだけは確かです。彼はその時イエスに、イエスとモーセとエリヤのために、それぞれ一つ、小屋を建てましょう、と言っています。

 マタイ・マルコ・ルカが書いていて、ペトロがペトロの手紙には書かなかったことがあります。あの時、ペトロたちは光輝く雲に覆われ、その雲の中から声が聞こえたのです。

ペトロは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という声を聞いた、と書きましたが、福音書ではそのあとに続く言葉があるのです。「これに聞け」と。

 ペトロがこの手紙を書いたのは、すでに始まっていたキリスト教徒への迫害の時代、

イエスの福音に従う人々を力づけ、彼らの信仰を保たせるためです。

ローマ帝国が長い繁栄を保つことが出来た理由の一つは、支配した地域にもともとある宗教を公認し、そのかわりに税金を治めさせるやりかたがうまく機能したからです。たとえば、ユダヤのエルサレムに神殿を持つユダヤ教徒たちは、ローマ公認の宗教として活動することを認められていました。キリスト教は、ユダヤ教の分派と考えられ、ローマはこの新しい群れを排除しようとしました。時折はじまる新しい宗教を取り締まる動きの中、キリスト教徒たちのまわりから、内側から、問題は起きてきました。2章に書かれた偽教師です。

旧約聖書エレミヤ書などに書かれている、イスラエルが捕囚となっていた時代。

偽預言者が、人々を惑わしていました。エレミヤが神からの故郷にすぐには帰れないが、この捕囚先の国で信仰を保つようにという言葉を預言すると、エレミヤを否定する言葉を預言として語る者が現れたのです。もうすぐ故郷に帰れる、という偽預言者の言葉を人々は喜びました。でも、その預言者は神の怒りを買い、聞いていた人々は取り残されました。

苦しみに合う時、神は祈りを聞き、助け手を送って下さる。でも、注意が必要なのです。

苦しみ弱る時、誘惑する者、惑わす者も近づいて来ます。ペトロやパウロが手紙を送った人々のところにも偽教師、偽伝道者、偽預言者が現れました。これは、現代2021年も

同じです。残念なことに、宗教は元手の要らないビッグビジネスであると言われます。根拠のない解決策を語り、人々から利益を得ようとする者はいつの時代もいます。いま、私たちのまわりには、沢山の信頼できる情報と、もっと沢山の信頼に値しない情報や、知恵が溢れています。そして残念なことに多くの人が惑わされているのです。

 キリスト教に関わる人々に、自分はクリスチャンであると言って友人になりましょうと

言ってくる方々があります。キリスト教団体が立てた異端110番への通報案件も、最近増加しています。コロナ対策もあり、インターネット上にキリスト教の礼拝や説教の動画が増えています。そこに紛れ込んでくる動画の中に、通報されるものがあるのです。

偽教師をどう見分けるか。いま、この時代にも、ペトロたちが教える確かな福音を見分ける力が、必要なのです。

 さきほど読んで頂いた詩編は、ダビデがヘブル語のアルファベットの文字の順番で書いた、主なる神への賛美と信仰告白です。

ダビデは任命されたイスラエルの王です。1節に、そのダビデが神に向って、王よ と

呼びかけています。イスラエルは長い間、人間の王のいない国でした。

士師記の最後に、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」と書かれています。王が無かった。これは、間違いです。イスラエルは、神を王として神のもとに集められた民であったのです。民が、神を、王として認めていなかった。士師記の終わりの言葉は、そのまま民の罪を告白する言葉なのです。

ダビデは民の王でしたが、彼自身、神を信じ神に仕える者です。彼は賛歌のなかで、神の

素晴らしさ、偉大さを詠います。神の主権は永遠。神は代々にわたり治められる。

神はただ高く尊くいますだけの方ではなく、私たち一人一人の衣食住に、心の飢えに

気づいて下さる方。倒れようとする者、うずくまる者一人一人を支え、起き上がらせる方。

神を仰ぎ、神の御業が行われるのを信じて待つ者を満たし、命と希望を与えて下さいます。

18節にダビデは主を呼ぶ人すべてに、神は近くいます方、と詠いますが、神は私たちが呼ばなければ来ない方ではありません。逆なのです。私たちが主を呼ぶ。そうすると、私たちが主なる方は近くに居て下さる。いつもそこに居て下さる、と、気付くことができるのです。

主はいつも、そば近く居て下さるのですから。

 ペトロは、偽預言者たちの言葉に惑わされる人々に、主イエス・キリストは、決して、

よくできた作り話の中の存在ではない、と、声を大にして言います。

なぜなら、ペトロは、目撃者の1人なのですから。ペトロ自身が、自分の目でイエスの姿が輝かしく変わった様子を見ていたのです。この手紙を書いているペトロが、私こそがあの山で荘厳な栄光の中に居た主イエスを見た者。ペトロの耳こそが、雲の中から響いてくる神の声を聞いた耳なのです。

人々が今、暗闇のような悩みの時を経験していることを、同じ時代を生きる者として、

ペトロは解っていました。あの人の言葉、この人の言葉、あの言い伝え・・・人の言葉に迷うのではない。いま、聞くべきは神の言葉。神が神自身の選んだ者によって伝えて下さる預言の言葉に、あなたたちを守る真の力があるのです。

神の言葉の灯を、心に持ち続けなさい。神が「これに聞け」と言われた方の言葉こそ、

ペトロが伝えたいこと。人々に受け止めてほしい言葉なのです。

 きょう、今週の黙想として週報にも載せた言葉が、ペトロの心からの言葉。

ペトロを通して、主イエスが私たちに理解してほしいと、真に願っておられることです。

ペトロの手紙Ⅱ 1章20節から21節を、皆さま声を合わせて、お読み下さい。

「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、

人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」

お祈りいたします。