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「あわれみの福音」

 

 ヨナは預言者です。これまで礼拝説教で学んできた、イザヤやエレミヤなどと同じく、

神が人間に語られる言葉を預かり、人々に伝えることが彼の仕事です。

旧約聖書には沢山の預言者が出てきます。先週お話したホセアや列王記に出てくるエリヤのように厳しい立場に置かれ、苦しんだ預言者は沢山います。皆、悩み苦しみながら役割を果たしました。預言者なのに神の前から逃げたのはヨナだけです。

 1章2節でニネベで人々に語るよう命じられ、3節でとっとと職務放棄し船に乗ります。

彼は全能の神から逃げ、同じ船に乗り合わせた人たちまで巻き込まれて嵐で死にそうな目に

会います。ヨナはやけっぱちになって船の乗務員たちに自分を海に投げ捨てろと言い、

海に落ちた彼は大きな魚に飲み込まれます。魚に飲み込まれたヨナ。このエピソードは後に、

童話「ピノキオの冒険」でクジラに飲み込まれる主人公の話の素になりました。

ヨナ書は4章までの短い書物です。ぜひ、読み返してみて下さい。

ヨナは神の前から逃げようとしました。彼は預言者。神と語り合う力が与えられています。でも、彼は嫌なのです。大きな都ニネベが嫌いなのです。

ニネベについて預言者ナホムは「流血の町。略奪に満ち、死体が絶えない」と書きました。

あんなテロと暴力の都に神の言葉を語るくらいなら、海に投げ込まれて死んだ方がましだ。

嵐の中でも態度の大きかったヨナは、魚に飲み込まれてはじめて悔い改めました。

ニネベは歩き回るのに四日はかかる大きな都。ヨナが「あと40日でニネベは滅びる」と

叫ぶとすぐ、ニネベに変化が起きました。人々は主を信じ、断食して神に祈るよう国中に呼び掛けたのです。呼びかけは瞬く間に王にまで届き、王も大臣たちも豪華な服を脱いで断食祈祷を始めました。悪い町ニネベに奇跡が起こったのです。大いなる都の悔い改めを見た神は憐れみ、ニネベを裁き滅ぼすことを思い直されました。

 ヨナのように、神様に文句を言ったことはありますか?ヨナはかなり問題ある人物ですが、

こう見えて見倣うべきことがいくつかあります。

ヨナは有能で行動力のある預言者です。彼に神は力ある言葉を託しました。

彼は神のご計画は必ず実現する、と信じています。神の存在を疑うことも神の力を疑うこともありません。ヨナは神の言葉を曲げません。彼は明らかにニネベの滅びを願っていますが、神がニネベに語れ、と託した言葉をそのまま語ります。

ヨナが神から与えられた命を軽く扱うことはかなり問題です。神のニネベへの憐れみに怒って、「命を取って下さい」と言い、船の上で自分を海に放り込め、と言うヨナ。

彼を素直な人と言うこともできます。自分の弱さ、心の中の怒りを神に隠さないことは悪いことではありません。それに、彼自身、わかっています。言っています。「あなたは、恵と憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」と。

ヨナ自身、魚の腹の中で「主よ、祈りがあなたに届くとき、あなたは滅びの穴から引き上げて下さる」と賛美し祈ったのです。主の憐れみに期待したのです。

 マタイによる福音書には、主イエスの伝道のありさまが書かれています。

町や村を残らず回って。大きな町や有名なところだけ、人が多い所だけを狙うのではなく、

残らず、です。

イエスが福音を宣べ伝え、教えるために選んだのは会堂でした。ユダヤ人たちはバビロン

捕囚で約束の地から引き離された時、それまで神殿での礼拝を大切にしてきた方法を変えなくてはなりませんでした。ユダヤ人男性10人で1つ会堂を建てる。信仰と民族を守るための

新しい掟は、イエスの時代にも守られていました。会堂を巡り歩けば、ユダヤ人たちすべてに伝えることができる。彼らに神の御国について教え、あらゆる病気や患いを癒す。

弱っている人、苦しんでいる人を見逃さないように。

 イエスがご自分で「残らず回って」下さったから、出会う一人一人の顔を見ることができ、

だからこそ、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」のを見て下さったのです。

きょうの箇所のすぐ後、イエスは12人の弟子を選び出し必要な力を授けて下さいました。

37節でイエスは弟子たちに「収穫は多いが、働き手は少ない。だから収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」と言われました。

イエスにつき従って、イエスの教えを聞き共に暮らしていた人々の祈りが積まれて、

12弟子は選ばれ、遣わされたのです。

 イエスが憐れまれた「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々。

主なる神が憐れみヨナを遣わして御言葉を伝えた人々。悪に満ちた大いなる都と呼ばれたニネベの人々について神は言われました。「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」イエスの時代もヨナの時代も、主は人々を憐れまれました。彼らがみな「どうしたらいいのか、わからない」人たちだから。そして「弱り果て打ちひしがれている」から。

 きょうの箇所を選んだのは三か月以上前です。その時も今も、私たちは、そして世界は、

数年前には想像することさえの無かった、悩みと苦しみと恐れの中にいます。

私たちも聖書の中の人々と同じ。「どうしたらいいのかわからない」一人一人です。

 今こそ、ヨナが魚の腹の中からも祈ったように、叫びを上げる時だと思います。

私たちはいま、傷んでいます。疲れています。「弱り果て打ちひしがれて」います。

ヨナが過ぎるほど素直に、自分は神と共にニネベを憐れむことは出来ない、と叫んだように、

心の内を神に隠しても無駄なのです。主はすべて、ご存知ですから。

私たちの神、信じる主は「恵と憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」なのですから。

主は今も「収穫は多いが、働き手は少ない。だから収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」と言われます。さらに祈りを積みましょう。

ヨナの祈りを聞いて下さった主は、私たちの日々の歩みに伴い、寄り添って下さいます。

 

お祈りいたします。