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「捜す見つけるそこにいる」

 

 一人でも軽んじないように気をつけなさい。

小さな者を一人でも。100匹の羊の内、たった1匹でも。そしてなかなか心を開いてくれない信仰の友も。イエスは捜しに行く方です。あ一人でも 1匹でも 天の父なる神様は滅びてはいけないと考えておられるのです。たった1匹だから仕方ない、とは言わない。

滅びることは望んでいないのです。

イエスが地上で生活されていた頃、まだ聖霊は信じる人の所に来ていませんでした。

でも父なる神は、人間たち一人一人のために助ける天使を与えて下さっていました。

一人一人を守る天使が、神の恵みと憐れみを届けるためにいつも、天の国で父なる神の御顔を仰いでいる。いつも、常に、神は私たちを心にかけていて下さる。ですから、

1人が救われると神の天使たちの間に喜びがある、と、ルカによる福音書にもあります。

 いなくなった1匹の羊の話は有名です。イエスの絵にも、羊を抱いて群れを導く姿がよく描かれます。兄弟。神の家族の1人である信仰の友が、あなたに罪を犯したなら。

イエスはこの人がどんな罪を犯したかは、お話されません。言葉によるのか暴力か、

生活の上または経済の事か。ここには旧約聖書の律法と違い、罰則は書かれていません。

赦すために。その罪を無視することや忘れて無かったことにするのではなく、また怒りに

まかせて怒鳴りつけるのではなく、忠告し相談する段階をイエスは教えておられます。

人間と人間で話し合って、神の御心に適う道が見つかるのでしょうか。直接、相手に会うよりも祈って解決を待つ方が良いのでは?私たちは不安になります。

主イエスは助ける教えを下さいました。今週の黙想の聖句です。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」主イエスが向き合う私たちと共に居て、私たちの話を聞いていて下さいます。

何のために、こんなに段階を踏んで時間をかけるのでしょう。

18節と19節に、重要なことが書いてあります。

「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」

人間同士の話し合い、決め事ではなく、そこに神が共に居て下さる。ということは、そこで起きることは地上だけ。人間同士だけの問題ではなく、天の国も含む神の前で起きている事なのです。

 二人で話し合う。何が問題か。何が罪か。罪という聖書の言葉は、「的外れ」という意味の言葉が使われています。在るべきところから外れてしまっている。まるで、自分の居場所や道を見失って、迷い出てしまった羊のように。どこで道を見失って、いまどこにいるのか。それを、最初から沢山の人の前で問題を扱うのではなく、まずは二人で話し合う。

でも、それで解決しないなら、他に二人か三人の人に同席してもらいましょう。

人を増やして攻撃するのではなく、不安を分かち合い寄り添うために。

さらに「教会に申し出てなさい」と。「教会に訴えなさい」ではなく。

家族から離れた兄弟を取り戻すために。あなたは1人ではない、と知らせたいのです。

あなたには99匹の仲間が居るんですよ。

 99匹の羊を山に残しておいて、1匹の羊を探しに行く。ここだけ読むと、他の羊は迷わないのに。困った羊だ。そんなふうに見えてしまいます。でも、実は、99匹は「迷わなかった」のではなく、「すでに見つけられて群れに戻った」羊なのです。

99匹は残しておいて。大丈夫?また誰か、どこかに行ってしまうのでは?

その危険はあるでしょう。でも残して行く場所は山。天の神の前に、天を仰げる場所に、

羊飼いは群れを導き、信じて神の前に群を置いて、出かけたのです。

 きょうの旧約聖書エゼキエル書は、預言者に神が与えた約束の言葉です。ダビデ王により統一されたイスラエル王国は南北 イスラエルとユダ2つの王国に分裂し、民は苦しみ散らされました。神はエゼキエルを通して王国の再統一を語りました。2本、別々の木になっている王国は1本の木、一つの国となる。散らされた民を神が集め、約束の地に連れて行く。

一人の王が彼らすべての王となる。一人の牧者が彼らすべての牧者となる。戦いに負けて

自分の国を失った民は神の民となり、神は彼らの神となる。

彼らがすがった偶像と神への背きから彼らを救い、清める。彼らは神の掟を守り、神の与えた地に永遠に住む。イエスが後に語られるのと同じ、回復の知らせです。

1人の牧者が、散らされた民を探し出し、見つけて下さる。

そして、神の住まいは彼らと共にあるのです。

 エゼキエルの時代、人々はダビデの時代のような地上の神の民の王国が回復することを

祈り、願いました。しかし、民が永遠に神と共に住む約束の地は、地上の王国ではありませんでした。主イエスの十字架で清められた神の民が集う、永遠の神の都です。

主なる神はキリストによって地上のすべての民をご自分の民として呼び集め、神の国に

招き入れて下さるのです。

 主に在る兄弟として、仲間から友から忠告を受け、教会で諭された人。その人が、

教会に聞き従わないなら、異邦人か徴税人と同様に見なしなさい、とイエスは言われました。罰するのではなく。  ここで徴税人というのは、当時、ユダヤ人がローマ帝国に納めていた税金を、ローマの役人のかわりに集める仕事をした人です。律法を守らないローマ人のために働く徴税人は、ユダヤ人に罪深い者と扱われました。ユダヤ人でありながら、自分のコミュニティを離れ、強い異邦人の力で生きようとする彼ら。

徴税人として私たちが知っているザアカイや、福音書記者のマタイも徴税人でした。

彼らは、兄弟たちの諭しを聞くこともできないほど、道を見失い迷ってしまっていたから。

たった一人でも、100匹の内の1匹でも、

主は滅びることを望まず、捜し出し見つけて、招き入れて下さる。

そして招かれた私たちはいま、主と共に歩く道にいます。

主が共にそこに居て下さるのです。

お祈りいたします。