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「迎えに出なさい」

 

 十人のおとめ のたとえ話は、当時のユダヤの結婚式の習慣を見る必要があります。

当時、結婚式3日から7日かけて行われたそうです。まず花嫁が花婿の留守中に花婿の家に行き、付き添いの若い女性たちによって髪や衣装を整えます。家は飾られ香が焚かれ招待客が集まります。ユダヤ暦で一日は日没から始まります。招待客は暗いうちに花婿を迎えるために行列を作り、花婿は客たちの祝福を受けつつ家に向かいます。花婿の到着のタイミングは、待つ人たちには知らされません。この時、「花婿はどこだ」「ここだ」「あそこだ」と声が掛けられるそうです。まるでイエスの語った再臨の時のようですね。花婿が家の前に到着すると、花嫁の付き添いの乙女たちは家の入口をランプや蝋燭で明るく照らします。

花婿は婚宴の席に案内され、花嫁と花婿は席につき、祝宴が始まるのです。

 十人の付き添いのおとめたちが待つ花婿とは誰でしょう。イザヤ書54章に「あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 全地の神と呼ばれる方」という言葉があります。黙示録の最後でも再臨の主を、教会が花嫁として待ち「来てください」と言います。花婿は主。世の終わりに、万軍の主、王の王として再び来られる救い主イエス・キリストを、迎え入れる様子を婚宴に喩えています。

 イザヤは主から与えられた豊かで平安な主の御業の幻を見ました。麗しく装った王と、

見渡す限り遠くまで国境を広げた王の国。その中で預言者は、ちょうど正反対の恐ろしい苦しみや悲しみを自分たちイスラエルが経験してきたことを思い出します。

数を調べた者。量った者。これは強い敵に貢物を納めることで争いを回避しようとした王や敵国が、蓄えてきた農産物や財産、また労働力となる国民の人口を調べた様子です。

また、やぐらを数えた者は、敵味方共に、互いの軍事力を調べる軍備を書いています。

無理難題を言ってくる敵、その敵の前で明確な指示を出せない王たち。イザヤには、戦いと軍事交渉に明け暮れていた人々が見えていなかったものが見えてきました。

きょうのイザヤ書33章17節の「遠く隔たった地」は、別に「遠くまで広がる国」と

訳されています。王が治める約束の地シオンの都エルサレム。イザヤの見る幻の中の都は、安らかな住まい。主の威光に輝いています。

出エジプトで荒野を彷徨ったイスラエルの天幕は、一つ所には留まれませんでした。さらに彼らは捕囚となり、与えられた約束の地から拉致され連れていかれました。

もう、あんなことは無い。争いも恐れもない。天幕の杭は永遠に抜かれず、綱は断ち切られることはなく、天幕は移されることはない。主は我らの王となって我らを救われる、という約束が、幻の内に示されたのです。水は主の恵みと教え、御業を表します。

小さな流れはチョロチョロと見つけにくいですが、多くの幅広い川となって流れる水は

はっきりと豊かな水です。

主は我らを正しく裁かれる。自分が正しい者は裁きを恐れるません。恐れるのは心にやましいところがあるからです。主に従う正しい道に立つ人には、裁きは正しい評価となります。裁きの座を通り抜けて、確かな保証を得ることになります。主は我らに法を与える方。すべてを創造され守られる方が与える法は、範囲も限度も無く正しいのです。

主の法は私たちの行動の基準になります。  主なる神は王となり、私たちに正しい基準を与え、私たちの罪を正しく裁き、救いを与えて下さったのです。

 救い主である花婿を迎える、花嫁の付き添いたち。主の花嫁は黙示録にもあるように、

キリストの教会を、建物ではなく主を信じる者の集い現わしています。

花嫁の付き添いとは誰でしょう。私たち主を信じて救い主を受け入れた教会の教会員です。救い主が再び来られ、すべての人を神の国に迎え入れる時、

私たちはやって来た花婿を明るく照らし、招待客に救い主を指し示す働きをするのです。

 愚かなおとめと、賢いおとめ。彼女たちは私たちの中に両方とも、います。

彼女たちが必要とした油。聖書で油は沢山の意味を持ちます。

油注ぎによって王や祭司は任命されます。注がれた油は清め、聖別します。油を塗れば傷は癒され、武具は準備が整います。油は灯した火を燃やし、よい油は良い香りを放ちます。

油を持ちともし火で照らし続ける力は、救われた者に与えられた救いの確信です。

清められて主の聖霊が住まう宮として、自分の中に揺るがない神の天幕を持ち主と共にいるなら、その人の油は尽きることは無い。ともし火は闇を照らす力です。

昔イスラエルが戦っていた時のように、自分たちの持っているものばかり調べて、恐れから抜け出せなくなることがあるのです。油が足りない。私たちは信じていても疲れを感じて心が眠り込むことがある。眠りの中で、闇への怖れに囚われてしまうことはあるのです。

 私たちは主イエスが十字架に架かって下さったことを知っています。救い主の十字架は

私たちの救いのため。救いを知ることは ともし火を得た事です。

ランプは私たち自身。主の光を放つために私たちは世に置かれました。信じましょう。

油を用意した私たちを信じるのではありません。私は主を信じ信仰を告白したのだ、と、

自分を信じるのでもありません。私たちを救い、私たちが満たした信仰と言う油を与えて

下さった、主イエスを。救い主を信じるのです。

賢い5人のおとめは主を出迎えて共に家に入りました。彼女たちは信じていたのです。

自分たちに主は十分な油を与えて下さった、と。

油はきっと足りない、と、恐れて疑った5人は、主をその場で待っていられず、家に入れませんでした。戸が閉じられたから、ではなく、そこに居なかったから。

迎えに出る役割を離れてしまったからです。

待ちましょう。ともし火を燃やしましょう。主の道を照らしましょう。

迎えに出なさい。あなたの主が来られます。

お祈りいたします。