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「風は静まった」

 

 嵐が起き、そして静まり凪となる。今日の旧新約の箇所に、いくつか共通点があります。イエスと弟子たち、そして預言者ヨナ。彼らは船に乗って出発し嵐に会います。
船の中でイエスもヨナも眠りました。どちらの船もプロの船乗がいて、彼らは嵐の中で命の危険を感じ、ヨナもイエスも彼らに起こされます。
 イエスと弟子たちはいくつかの舟で共に出発しました。イエスが「向こう岸に渡ろう」と言われたのは、集まって来た群衆から離れるため。語り続けるイエスと共に、休息をとれない弟子たちを休ませるためと言われています。これまでの働きの場から離れ、新しい働きの場のある向こう岸へ移動する。舟を用意したは弟子たち。その舟はイエスが岸に集まる群衆にお話するために乗った小舟です。イエスと元ガリラヤ湖の漁師だった弟子たちは彼らの
慣れた仕事場だったはずの湖の上で、嵐に悩まされます。
小さな手漕ぎの舟は波をかぶり水浸し。力強く神の国を語ったイエスはあてにならず眠っている。湖を荒らす風のように弟子たちの心は不安に揺れ動いていました。
弟子たちは叫びます。「わたしたちが溺れてもかまわないのですか」するとイエスは起き上がり、風を叱り湖に命じました。「黙れ、静まれ」
イエスの声が聞こえたとたん、風は止み波はおさまり湖は凪ました。静かになった湖の上でイエスは言ったのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
 イエスは群衆の中でも嵐の中でもいつも、落ち着いていました。病を癒す時も、嵐の中この舟に乗っていても、イエスは心を波立たせること無く平安で穏やかでした。
イエスは風と湖を𠮟り、命の危険を感じるほどの嵐をたった一言で、鎮めてしまいました。風も湖もたちどころに従うなんて、この方はどなたなのだろう。弟子たちはイエスを非常に恐れました。船の上でイエスを見上げた弟子たちは、気づいていなかったかもしれません。
波風を恐れイエスに叫んだ弟子たちは、もう狼狽えていません。いつもの慣れた手つきで
舟を漕ぐ彼ら。風や湖を鎮めたイエスは、弟子たちの心の中の嵐も鎮めたのです。
 船に乗って嵐に会ったのは預言者ヨナも同じ。彼が乗ったのはイエスが乗った舟より
ずっと大きい商売人たちが使う船です。荷物も乗客もたくさん乗っていました。
ヨナが船に乗ったのは、神が彼に与えた預言者としての働きから逃げるため。
彼が嫌うニネベはアッシリアの都市。アッシリアはサマリアを滅ぼし捕囚にした、ユダの人々にとって憎むべき敵国です。ニネベついてナホムが預言しています。ナホムはニネベの人々は滅ぼされる都ニネベは陥落する、と、徹底的に呪っています。
ニネベはイスラエルの人々にとって、暴力的なテロと破壊の代名詞のような町でした。
神はヨナの乗った船に嵐を送りますが、ヨナは船底でぐっすり眠ります。
彼と一緒の船に乗ったのは異邦人ばかり。誰も主なる神に祈る者はいません。が、明らかに彼らの方が預言者であるヨナより真面目でした。彼らは自分の神に祈り、積み荷を海に投げ捨て、乗員乗客全員が助かるために万策を尽くします。ヨナは協力もせず祈りもせず、徹底的に無関心を貫きます。神は異邦人たちの前でもヨナに逃げる機会を与えず、ヨナはまんまと犯人捜しのくじ引きに当たります。
船員たちは無礼なヨナにも弁明のチャンスを与えますが、彼はそれでも神と預言者の仕事から逃げるため、賭けをします。自分が大嵐の原因だ。自分を海に投げ込め。
彼は、神に対し言うのです。自分は死んでもニネベへの預言者になどなりたくない、と。
ただ、律法を知る預言者として彼は自殺することはできません。異邦人によって殺されて
死ぬ、という最後の手段。船員たちは自分たちの知らなかったヘブライ人の神に祈ってヨナを海に放り込み、するとたちどころに海は静まります。主は凪いだ海によって異邦人たちにご自身を現わされ、彼らは主を畏れることを知りました。
 ヨナは最後の賭けにも当然、破れました。船に風を送り嵐を起こした主は、今度は巨大な魚によって彼を守ります。他人に迷惑をかけ命さえも粗末にするヨナに、主は魚の腹という「奥まった自分の部屋」で「隠れたところにおられる」父なる神に祈る時を与えました。  ニネベに行け、と命じられて以来、ヨナは逃げ続けました。嵐も、海に投げ込まれ死を願うことも、彼の心の中の嵐の解決にはなりませんでした。彼は魚の腹の中で祈り、
主なる神を仰ぎます。  「わが神、主よ あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするときわたしは主の御名を唱えた。
わたしの祈りがあなたに届き聖なる神殿に達した。偽りの神々に従う者たちが忠節を
捨て去ろうとも わたしは感謝の声をあげいけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
救いは、主にこそある」ヨナは異邦の船員たちの信仰を見て、もし彼らがその忠節を捨て去ろうとも、と喩えに使うほど、真の神を知らない者たちに敬意をもつようになっています。
彼は自分の逃亡の経験から悟ったのです。神から逃げることはできない、と。
ヨナが逃げ続けた間も主は彼のために働いて下さいました。彼が絶望した時も、主の愛の
御手は彼から離れなかったのです。
 イエスの言葉で嵐が治まった時、弟子たちは神の御力が働かれたことを知りました。
イエスは嵐の中でも怯えることはなく、弟子たちの叫びに応えて下さいました。
嵐のような困難に出会って初めて、私たちは恐れと危機を感じて祈ります。しかし日常、
特に問題なく生活できていると思う時、私たちは共に居て下さる主なる神の御手に心を向けることの少ない者です。嵐の中でもイエスの心には凪がありました。
「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」
神の御手が働かれ栄光が現れる時、そこに主は神の国の平安を与えて下さいます。
「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風は
やみ、すっかり凪になった。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
恐れ悩む時も平安があると感じる時も、神の御手は私たちと共にあります。
お祈りいたします。