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「与えられた場所」

 

 アモスが神の言葉を預言した時代は、列王記下14章23節以降。ヤロブアム2世は主が遣わした預言者ヨナの言葉を聞き領土回復の戦いに勝って軍事力を発揮した王ですが、

偶像崇拝を奨励し民を主から遠ざけた悪い王でした。主はアモスに、ヤロブアムの家に立ち向かう、と言われました。

 イスラエルの預言者アマツヤはヤロブアム王やアモスの所に来ました。預言者とは主の言を預かり語る者のはずですが、アマツヤは神のためではなく王のために働いています。

 アモスは牧畜者で農業従事者で、彼の里テコアはベツレヘムの南で、南ユダの領土です。

アマツヤは彼に故郷に帰って預言しろ、と言いますが、アモスは反論しました。

預言者であるあなたが主の言葉を聞かず語らないから、主が私を遣わしたのです。預言者でもないただの農民の私に主が「イスラエルに預言せよ」と命じたのです、と。

 アモスは主がイスラエルを検査しようと、下げ振りを持って立っておられる幻を見せられました。下げ振りとは、きょうの週報に載せた挿絵のように紐の先に尖った錘をつけた物。

建築物が地面から垂直に立ってきちんと重心が保たれているか、検査する器具です。

役に立つ城壁。その必要な機能は3つあります。外敵から町を守れる強さがあるか。人や物の出入りを管理できるか。その町の領土と、外との区別・差別がはっきりできるか、です。

 主は建物ではなくイスラエルのまん中に下げ振りを下ろし国を検査すると言われました。

国を主の目にきちんとしているのでしょうか。国を城壁に例えて考えて見ましょう。

 外敵から町を守れるか。国民を守れるか。聖書から、外敵は神を信じていない外国のようにも読めますが、実際に神が裁きや罰を下すのは、神を信じない他の国を真似して神以外を礼拝した時です。 外敵とは神を神として信じない罪、そして神に立ち帰らず魂に死を迎えること。罪と死こそ、恐るべき外敵です。

 城壁のように人や物の出入りを管理できるか。神のもとで考えると出入りとは、遣わされる人と帰ってくる人、捧げて用いられる物と与えられる恵みのことでしょう。

神のために用いられる人や物に対して、人が信仰によってできる大きな働きは、祈りです。出て行く人、捧げられる物によって、行く先の場所や人が活躍できるように、

帰って来た人や行われた仕事や奉仕によって与えられた恵みに、感謝の祈りを捧げる。

そして神がして下さったすべてを喜び賛美する。神の恵みや導きが、祈りによって神と私たちのために機能する状態。城壁の管理とは、信じる者たちの祈りです。

 そして城壁のように内と外を区別する働き。それは、聖別することです。

自分たちの生活のついでに神を礼拝するのではなく、

「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか:ローマ11章35節」。

手帳に予定を書き込む作業を、教会のこと神様のことから始める。

収入を得たら、まず献金を取り分ける。「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われた主は「そうすればみな加えて与えられる」と約束されたのです。

 アモスの時代のイスラエルは戦争に勝ち繫栄しましたが、主の下げ振りの検査結果は、

この国は国民を外敵から守っていない。出入りの管理もできていない、というものでした。この国は必ず滅びる。そして将来の捕囚が預言されました。

 マルコによる福音書6章は、イエスが故郷ナザレで活動された時の様子です。

イエスが弟子たちと共にやって来て、安息日に会堂で福音を語られる。行く先々で人々を教え、病を癒し、奇跡を行う。イエスが宣教を始めてからずっと、行って来たことです。

でも、ここでイエスは、ほとんど奇跡を行えませんでした。何故でしょう。

 ナザレの町の人たちはイエスを知っています。兄弟も姉妹もこの町で育ち、住んでいます。よく知っている、あの家の子。だからこそ驚いたのです。誰があの子に、こんなに語れる知識を与えたんだ。どうやって奇跡や不思議な業ができるようになったんだ。

あいつはたかが大工じゃないか。たかが あのマリアの息子じゃないか。

ナザレの人達がイエスを知っている、と思っていたことは、福音を聞くため、信じて恵みを受けるためには、全く役に立たない情報でした。

ナザレでイエスに起きた事は、私たちにも起きます。と、言うと、クリスチャンになってもなかなか、家族から理解されない。家族が教会に興味を持ってくれないことを思い出すかもしれません。

よく知っているから、わからない。これは、教会の中でも起きるのです。

イエスを神の子救い主と思わなければ、どんなに癒しを求めていう人でも、イエスの与える恵みを受け取れない。信じていなければ、その人にとって聖書の言葉は神の言葉にはならない。アモスが農民だったのに主に遣わされ預言したように、主は神の民とした人を用いる。私たち神の家族として信仰を与えられた者たちの中で、主が用いない人材はいません。

神がイエスによって救いと恵みを伝えたいと願っているのです。

あなたにどんな能力があるか、無いか。あなたがどんな家でどんな育ち方をしたか、どんな仕事をしているか。それは福音を伝える役に立つことはあっても、邪魔にはなりません。

ただ、残念ながら、主が伝えなさいと言われる言葉は、聞く人にとって喜ばしい言葉ではないかもしれません。聞く人はナザレの人のように驚くかもしれません。

預言者アマツヤのように「あっちへ行け」と言う人もいるでしょうし、楽しい働きばかりでは無いでしょう。

でも。私たちも、アモスと同じように、自分の民が、自分の大切な人たちが、滅びることを恐れている。その思いは同じではありませんか? 私が言っても、どうせ誰も信じない。

私には上手に祈れない、と、あきらめて止めてしまう前に、思い出して下さい。

あなたがいる場所に、あなたを置いたのは、そこにあなたを遣わしたのは私たちの主です。

そこをあなたに与えたのは、聖霊によって共に居て下さる救い主。主なる神なのです。

お祈りいたします。