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「神の側に立つ」

 

 エステルは自分の民族の危機を知りませんでした。彼女の養父モルデカイは、粗布を着て灰の中に座り断食しました。これはユダヤ人たちが神に祈って助けを求める時の作法です。多くの人が行きかう都のまん中で恥も外聞もなく嘆き悲しみ、自分の身に起きた不幸を全身で現します。エステルたちは分裂したイスラエルの南王国ユダの民でバビロン捕囚となった人たちです。バビロンはペルシアに負け、彼らはそのまま、ペルシア捕囚となりました。

故郷に帰れないまま、ユダヤ人たちは国中に散っていて、モルデカイたち親子は首都スサに居たのです。ペルシアには、ユダヤ人の他にもいろいろな国からの捕虜がいました。

2章の、エステルが王の新しい王妃に選ばれるエピソードは、世界中にあるシンデレラ物語のモチーフの一つです。ペルシア人も捕囚民も関係なく集められた女性たちから思いがけず選ばれ、王妃となったエステルは王宮に住むようになりました。

なぜ王のお気に入りの大臣ハマンがユダヤ人絶滅を計画したか。ユダヤ人モルデカイがハマンに対して無礼だったから、または王宮付近をうろつくモルデカイが王暗殺の計画を暴露し王に取り立てられ、ハマンは彼をライバル視したから(ギリシア語外典)。どちらにしても、ユダヤ人絶滅を王に願い出たハマンは国庫に莫大な礼金を支払う、と約束しました。

ペルシアのユダヤ人たちの命は売り渡され、絶滅の危機が迫っていました。

モルデカイは言いました。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」 エステル記は「神」が出てこない書物。

モルデカイは、エステルの人生を定めて動かしている神と、そのご計画を考えるよう促したのです。

 世界のいろいろな危機。大災害、感染症の流行、経済の悪化、戦争などのニュースに慣れ、「自分事として受け止めない」「自分だけは関係ないと思う」問題が指摘されます。

感染者数に自分は入らない。自分の住む土地で事件は起きない。公共交通機関も通学路も安全。日本は拳銃は使われない国。思い込みは危機を大きくします。

同じようなことが、福音や聖書の言葉についても起きていないでしょうか。

神が私たちを愛している。イエスの十字架は人類を罪から救い、私たちは神の子 神の家族となる。いつも聞く内容に慣れて「自分は滅びることは無い」ところで終わっていないでしょうか?「福音を聞いていない、まだ知らない人」耳に届いていない人が身近にいる可能性に気づいているでしょうか?伝えたい、知ってほしいと願いながら、語る力 伝える方法を

見つけられずに戸惑う人の悩みを思っているでしょうか?

王妃エステルにモルデカイは助けを求めました。確かに彼女は王に気に入られ、選ばれ、国家を挙げて行われた王妃候補コンテストの勝利者です。でも この国の法律では、

もし王が王笏を差し伸べなかったなら、たとえ王妃でも命はありません。

王宮に居れば、エステルがユダヤ人として絶滅する可能性は、ほぼありません。けれど王の機嫌一つで彼女の運命が変わることは変わりません。王宮は彼女の戦場でした。

エステルがユダヤ人を救う決意した時の箇所が、週報の今週の御言葉です。

「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」

エステルは共に滅ぶ覚悟でユダヤ人たちに、自分と共に断食して神の御手を動かす、祈りのチームに加わることを求めました。断食は、命がけの決意を意味します。

神の側に立ち、救いの福音を伝える働きは、祈りによる応援を受けることができます。

信仰とは、ただ守られ愛され永遠の約束の中で平安に暮らすことではありません。私たちが自分自身の霊において、内在して下さる聖霊の力を受けて神と共に命がけで戦うこと。

武器も権力も持っていないことを自覚した上で、神を賛美し、信仰によって心を込めて命がけで祈る。祈りの戦いにこそ、今、私たちがするべき戦いです。

 エステルは、王の権力を乱用するハマンに祈りと知恵で対抗しました。

バプテスマのヨハネはヘロデ王の罪を指摘しました。ヨハネは福音を語りました。

危機にあっても、相手が権力者で自分を殺す可能性があっても牢の中でも、王に福音が語れるなら、ヨハネには自分の死は問題外だったのです。

 ヨハネは、イエス・キリストを自分の弟子に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と示して導いた人です。彼は一度、イエスに質問をしたことがあります。すでにヘロデに捕らえられ獄中に居たヨハネは、イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければいけませんか」と聞いたのです。イエスはヨハネの弟子たちに、イエスがどんな働きをしているか伝えなさいと言いました。マタイによる福音書11章の記事です。

そしてイエスは自分についてきている人々に、ヨハネの働きによって福音を伝えたのです。

 イエスとヨハネは互いに相手に心を向け、働きに関心を持っていました。私たちも、

同じ時代にこの世に遣わされて働く者に関心持ち、心を向けましょう。

いまも戦争の中、厳しい働きの現場で、犠牲をいとわず戦っている神の家族がいます。

いま、心や体に疲れや痛みを抱えて苦しみながら生活している信仰の仲間が居ます。

そばに居ないから何もできない、といってしまうことは、私たちの中に共に居て下さる主の霊に対して、むしろ失礼です。

神の側に立って、神が求めておられる働きのために、信仰と霊と祈りによって共に戦いましょう。エステルのように、「このように(祈りを)してから」

たとえ一人一人が弱くても、離れていても、神は私たちの祈りを用いられます。

お祈りいたします。