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「聴き取る」

 

 私たちは普段、難しいことを考えません。聖書の事、政治の事、経済の問題よりも、きょう食べるものをどうするか。気持ちのいい服や安心して眠れる場所は用意できるのか。そんな必要が私たちには毎日、考えなくてはならない大切で、必要なことです。だから私たちはパンで悩む弟子たちの気持ちはよくわかります。

いっしょの舟で向こう岸に渡る仲間全員にパンが1つだけ。彼らがいつも食べている大きな大麦のパンでも足りません。大人が13人もいるのです。町に行っても店や、パンを分けてくれる人をすぐみつけられるわけではありません。 その時、イエスが言ったのです

「ファリサイ人のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。

弟子たちは思いました。ああ主もパンを用意しなかった私たちを怒っている、と。

ほんの数日前イエスは、弟子たちが持っていた七つのパンを、集まっていた四千人以上の人々に分け与えました。人々が満腹して残したパンくずは、七つの籠にいっぱいになりました。マルコ6章で五千人が集まった時は、五つのパンを分けて12の籠がいっぱいになりました。

あんな経験をしたのに、パンが無い!と不安がる弟子たちにイエスは「まだ悟らないのか」と言いました。主イエスが弟子たち言ったファリサイ人のパン種。ヘロデのパン種。

パン種とは、イースト菌のことです。小麦粉にほんの少しイースト菌を混ぜると、練り粉全体が膨らんで焼いたらフワフワのパンができます。イエスは弟子たちが持っているパンの話はしていません。ファリサイ人やヘロデ王の考え方をパン種にイースト菌に例えたのです。

 ファリサイ人は人々に教えました。律法を守れば、神の御心に適う者になれる。食事の前に手を洗いなさい。安息日は神の日だから自分のために働くのは止めなさい。律法で定められているのだから。 彼らはイエスが神から遣わされたと聞いて、しるしを求めました。

遠い昔、モーセとアロンはエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を助け出すために、遣わされました。神は彼らを遣わしたのが確かに神ご自身だと知らせるために、モーセと

アロンに奇跡を しるしとして行う力を与えました。アロンの杖はファラオの前で蛇に

なり、モーセが杖を海に差し伸べると主は民の前に道を開いて下さいました。

モーセもアロンも、神が命じて行動したのです。

イエスに向ってファリサイ人はしるしを求めましたが、それは人間が神を思うままに動かそうとすること。ファリサイ人として、神の御心に適う道を教えることとは正反対の、従順とは程遠い行為です。神のためにと教えながら、神に心から従わない彼らの、その考え方を

イエスは警戒するように教えたのです。

 ヘロデ王はバプテスマのヨハネを殺しました。宴会の席上、ヘロデが客の目の前で少女の願いを何でも聞くという約束をした。王としての自分の体面と威信のため、ヨハネが聖なる人かもしれない、という自分のささやかな神に向う心をヘロデは捨てました。使徒言行録

12章で王の機嫌を取ろうとする人々の前でヘロデは死にます。人々から「神のようだ」と褒め称えられていた時、神は思い上がった彼を打ち、彼は蛆に喰われて息絶えました。

ヘロデのパン種。それは人が神よりも自分を優先し神になろうとするヘロデの罪深い考え方を指しているのです。

 預言者エレミヤのいた時代、神の言葉ではなく捕囚の民が聞きたい言葉を言うニセ預言者が沢山、居ました。エレミヤはユダの地で、捕囚となったユダヤ人たちに手紙を書いて神の言葉を伝え続けましたが、偽預言者たちは捕囚先のバビロンやペルシアで苦しんでいる民に、「夢で示された」とか「あなたたちに平和が訪れます」「あなたたちが災いに会うことはありません。」などの根拠のない慰めを語っていたのです。神から遣わされていない彼らが

語る言葉も神から預かった言葉ではありません。偽預言者の言葉は、民の神への信仰を失わせ人々は神から離れ神の名を忘れ、心も魂も、神から離散して行ってしまう。それは偽預言者の言葉が形だけで力がないからです。神は彼らの言葉をもみ殻のようだと言われます。

穀物は脱穀され粉に挽かれればパンになり人々の腹を満たします。また 種もみとして地に撒かれれば、また芽を出し、新たな収穫を得ることができます。もみ殻は、穀物から剥がれおちた形だけの中身のないもの。空腹を満たすことも、栄養となることも、新たな成長を

期待することもできません。

神の言葉は、火に似ている。また岩を打ち砕く槌のようだと主は言われます。

20章9節でエレミヤが告白したように、神の言葉を与えられた者が語らずに心に秘めていると、その言葉は火となって語ろうとしないその人を内側から苛むのです。

神の言葉を知らずに滅びて行く人をただ見ていることは、神の言葉を受けた人にはかえって苦しいのです。 私たちは神を知っているでしょうか。

エレミヤ書23章で、神はエレミヤにご自身を語ります。

神は近くにいます方、私たちの祈りを聞く方だとあなたたちは言う。ではもし、人がどこかに隠れたら、神は見つけられないのか?私が造り上げたすべてのものに、天にも地にも主である私は満ちている。すべてに満ちている私が、造ったものを見失うこと気付かないことがあるだろうか?と主は言われます。神が造ったすべてに神ご自身が充満しておられます。

この充満している方の命の言葉が私たちを育て、また私たちの中で命の芽を育てて下さるのです。

 弟子たちはイエスと共に舟に乗り出発しましたが、自分たちはパンを持ってこなかった、と慌てました。私たちが毎日、その日の暮らしを私たちはせいいっぱい、生きていることを、主は良く知っておられます。神様がよくわからない。それは当然の事です。

私たちは神が造られたものの中の小さな一人に過ぎません。自分にもわかるように、奇跡が起きることを願い、無視して自分には神は要らない、と自分を大きく見せようとする。

するとどんどん神と私たちは離れ、神は私たちの知らないわからない方になってしまう。

それはとても悲しく残念なことです。主は私たちと共に居て下さる方ですが、同時に全世界 全宇宙に満ちていて、私たちの必要にも心の中の小さな想いにも気づいて下さる方です。

神が語って下さる声を聴きましょう。命の言葉を聴きましょう。

そしてイエスが少しのパンで何千人もの人を満腹させたように、とても弱く小さい私たちの力を用いて頂き、私たちの内に豊かに満ちあふれる主の言葉でさらに育てて頂きましょう。

お祈りいたします。