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「主にゆだねられたもの」

 

 サムエルはイスラエルの預言者で祭司。イスラエルの王サウルやダビデに油を注ぎ任職する役割を与えられた人です。彼の母ハンナは長年 子供を産めない苦しみの中にいました。
夫エルカナのもう一人の妻ペニナは子がいて、ハンナの立場は厳しく苦しいものでした。
悩み食欲を無くした彼女を夫エルカナは気遣いますが、それがさらにペニナを苦しめ、
エルカナ家の家庭環境は悪化していました。
ハンナは家族を攻撃するのではなく、自分の問題に向き合って、すべてを神に委ねました。
「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決して
かみそりを当てません。」 ハンナは神殿で祭司から泥酔の疑いをかけられるほど熱心に祈り、
彼女の祈りを聞かれた主は、ハンナに男の子 サムエルを与えます。
エルカナ家に家族が互いを傷つけあい家庭を破綻させる、負の連鎖が起きたとしても不思議はありません。しかしエルカナ家の人間関係は守られました。
主はこの家を祝福の連鎖に導かれたのです。
ハンナは子の無い妻という恥を注がれ、さらに彼女は自分の誓いを果たし、可愛い我が子を捧げる苦しみを受け入れました。ハンナが毎年、サムエルの服を作り届けたこと。ハンナに息子3人、娘2人が与えられたことは2章18-21節に書かれています。
 サムエルはハンナの初子。きょうのルカによる福音書にあるように、イエスもサムエルも
『初めて生まれる男子』でした。
律法の書レビ記には出産後8日目の男児の割礼と清めの期間後に神殿で全焼の献げ物と贖罪の献げ物をする規定があります。マリアとヨセフはこのために神殿に行きました。
ハンナとは違い、両親は幼子イエスを神殿に置いて帰るわけではありません。
献げ物をするためにやってきた親子に高齢の男性が一人、近づいて来ました。
シメオン。この老人が聖霊によって、メシアを見るまで死なないと示されたことを人々は
よく知っていて「あの人の姿を神殿で見られる。ということは彼はまだ、約束のメシア:救い主に会っていないんだ。イスラエルの慰めの時はまだ来ていないんだ」と、彼を見るたび語り合っていました。聖霊は彼に働きかけ、だれも注目していないマリア・ヨセフ・幼子イエスの親子
三人にシメオンが気づくよう導きました。彼は幼子を抱き上げ、神に祈ったのです。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」
マリアとヨセフは神殿に来た時すでに、幼子が救い主メシアであることを知っています。
でも、イエスが他の子とは違い、神の啓示によって与えられた子だとは誰も知らない。
あの夜、羊飼いたちがイエスの誕生を祝った以外、彼らを特別な家族と気付く人はいませんでした。シメオンの祈る言葉を聞き、彼ら夫婦は再び自分たちに委ねられた幼子の役割を認識したのです。
シメオンの言葉は幼子誕生の祝いや喜びだけを伝えるものではありませんでした。
「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」 救い主の親であることが、喜びや感謝だけでなく、母の心が剣で刺し貫かれるほどに 苦しみ悲しみも伴う役割であることが、
シメオンを通しマリアとヨセフに伝えられたのです。
 人が人として与えられる命の重さ。一人一人の人生の困難や不安は、自分自身や共に生きる人々に理由を求める時、私たちの心や人間関係には大きな負担がかかり、時にはそこに争いや憎しみ、破壊が起きてしまいます。
シメオンやアンナの、いつ来るとも知れない人生の終わりを待つ 恐れと日々の苦しみ。
マリアとヨセフはイエスによってシメオンに神の祝福を伝えました。
マリアとヨセフが結婚当初から委ねられ、守り続けて来た幼子イエスとの日々。
シメオンはマリアに試練と神の祝福を伝えました。
救いと救い主の現れる時を待ち望む人々、シメオンが待ち続ける姿を見ていた人々。
もう一人の老人アンナは、幼子一家とシメオンの出会いを示して、この出会いの意味と彼らによって人々に与えられた神からの祝福を伝えました。
マリアとヨセフ、そしてシメオンとアンナ。皆、自分自身の人生を神に委ね、
サムエルの母ハンナと同じように、自分自身が受けた試練に向き合い、
そのすべてを神に捧げ、委ねました。彼らは自分たちの持つ困難を、思いがけない災難や不幸とは考えませんでした。自分の問題から逃げたり呪ったりせずに すべてを与える方に。
命を与える主なる神に祈り委ねたのです。
与えられた課題をどう乗り越えるか。自分たちの問題・課題をすべての源であり初めである神、主に委ねることができるか。共に苦しみ、信じて主を仰ぐことができるか。主に委ねられた状況、委ねられた時を、受け取った私たちが祈りと信仰によって再び 主に委ねる。
自分の苦しみ悩みから逃げず、すべてを主なる神に、祈りを以て委ねる。憎しみや怒りの連鎖ではなく、委ねて祝福を勝ち取る連鎖に入る。すると私たちは、あのエルカナ家のように自分たちに大きな祝福を与えて下さる主に気づくのです
  幼子イエスはマリアとヨセフと共にナザレへ帰り、たくましく育ち、知恵に満ち、
神の恵みに包まれて育ちました。マリアとヨセフの町で、救い主が育つ。
イエスの成長と共に、マリアたちも神の祝福の連鎖の中に生き続けました。
神の子イエスを委ねられた者として。
 主は私たちに聖書を通して豊かな知恵と祝福を与えて下さいました。
私たちもそれぞれの人生を主から委ねられた者。与えられた神への信仰と神からの信頼を喜び、
この年も主と共に、イエスのようにたくましく生きて行きましょう。
お祈りいたします。