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「共に担う」

 

 出エジプトのイスラエルの民。彼らは自分の行く先も神の御心も知らず、
モーセを通し神に導かれるまま、教えられるままについて行きました。
12章に、エジプトを脱出したイスラエル人は壮年男子だけで60万人とあります。
女性も子供も老人も含め100万人を優に超える人間の群。民はすべてのイザコザや問題を
指導者としてただ一人置かれたモーセのところに持ち込みますから、彼に休む暇はありません。民も、自分の話をモーセに聞いてもらうまで…一体、何日かかったことでしょう。
 そんなモーセにアドバイスをしたのは、モーセが荒野で出会った祭司エトロ。モーセの妻
ツィポラの父です。ミディアンで祭司として働くエトロも、多くの人の相談を受ける立場ですからモーセの苦労はわかります。わかるから、彼の効率の悪い仕事ぶりにも気づくのです。
 民の訴えを聞く。他人の人生に意見するその責任の重さ。容易く誰かに助けを求めもせず、モーセは1人で背負い込んでいました。民はなんとかして自分の訴えを聞いてもらおうと焦るばかり。悪循環が民とモーセの間を良い方向に導くわけはありません。
十人ごと、百人ごと、千人ごとに隊長を置き、仕事や責任を分担する。後のローマ帝国でも
兵隊の統率のために用いられた方法です。これはモーセのためだけのシステムではありません。話を聞いてくれる人がそばに居る。身近なことは身近な人に。早く解ってもえるし第一、話しやすい。民にもモーセにもよい方法でした。
モーセの舅 エテロはモーセに再会して4章9節「主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで」感謝の献げ物をしました。
神の御手がイスラエルと共にあることをエテロは知りました。だからエテロはアドバイスしたのです。この人々の重荷をモーセ一人で担うべきではない、と。
モーセは本来、神と民の間に立ち神の言葉を民に伝える役割を担う者です。100万の民の訴えは、彼から 彼が神に聞く時間を奪っていました。モーセ本来の仕事のために時間を与える。モーセも民も共に心と魂と生活に必要な助けを得るため、働きを分担すべきだったのです。
 民の中の一人であった自分たちが民の問題を裁く。彼らは自分たちにも、モーセと同じように、主なる神の祝福が与えられることに気づきました。そして隊長たちは知ったのです。
モーセが特別だから神から役割と力を与えられたのではない。
モーセも自分達も、神が民を救い恵みを与えるための働きの一つを任されている。
神が民を愛し民のためにモーセや自分たちを選び出し、神の業を担わせたのだ、と。
 ルカによる福音書5章はイエスが漁師だったシモン・ペトロと仲間のヤコブとヨハネを
弟子として選び出した様子を描いています。イエスはガリラヤ地方で福音を語り伝え、
病人や悪霊に憑りつかれた人を癒す働きをして来られました。
4章でイエスはシモン・ペトロの家にも立ち寄り、シモンの姑の病気も癒しました。
神の言葉を聞き、奇跡を見ようとイエスについてきた群衆に語るために、イエスは舟に自分を乗せて少し岸から離れてくれとシモンに頼みました。シモンはこの方が神の子 メシアと言われていると知っていました。
イエスが湖に来た時、漁師たちは網を洗っていました。漁の時間は、湖が闇に包まれる暗い夜。水面に太陽の光が反射する日中には見えない水の深みに網を降ろした彼らの一晩は不漁に終っていました。自分の舟から人々に語った神の子と呼ばれる人が言ったのです
「沖に漕ぎだして網を降ろし、漁をしなさい」と。 あなたは漁師でもないのに。
反論しようとしたシモンは、彼の舟で すぐそばで聞いたイエスの言葉を思い出しました。
それに、この人は家族の病気を治してくれた人だ。
 「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」シモンは自分のプロの漁師の判断やプライドを一旦、脇に置き イエスの言葉に従いました。すると、
つい先ほど洗い繕ったばかりの網が破れそうなほどの魚。シモンは仲間に合図し2艘の舟に魚を満たしました。が、2艘とも沈みそうになりました。
起きるはずのないことが起きている。シモンは震えあがりました。
イエスが自分の舟で、自分たち漁師にも採れなかった大漁を昼間に起こされた。
とんでもないことだ。いま、舟にお乗せしているこの方は、確かに神の子メシアだ。
 「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者なのです」
水の上で、同じ船に乗る方に「離れてくれ」って。イエスさまに泳いで帰れ、ってこと?
などという、とてもペテロらしい逸話へのツッコミはともかく。
シモンは目を開かれました。
聖なる方に近づいたことに気づいた者が感じる、魂の底から湧きあがる畏れの感情で、
彼と仲間の漁師たちは驚き震えていたのです。イエスはそんな彼らに言われました。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」
 教会は神の家です。目に見えるのは礼拝や集会のために造られた建物でしかありません。
しかし十字架を掲げたこの場所は、イエス・キリストの十字架によって自分たちの罪が赦されたと信じる者たちが、神に出会い、神に近づき、神の言葉を聞く場所です。
エテロはモーセに言いました。
「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」
神のために働く。毎日の仕事の中にその喜びを見出すこともあるでしょう。
 目に見える教会は、人間が集まる場所です。人はそれぞれ、得意 不得意も、上手も下手もあります。出エジプトのモーセのように一人が多くの働きを担っていることもあるでしょう。
「あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、
神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、
この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう」
働きを分かち合い担い合う。そこには主なる神の祝福があります。
神と共に働きを担う時、恵みと祝福を受ける機会、神に近づく時が見出せるでしょう。
お祈りいたします。