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「救い出す主」

 

 その丘の名前:ゴルゴタを日本語に訳すと「されこうべ」 されこうべは 白骨化した頭蓋骨
晒(さら)された頭(こうべ)のことです。ここは罪人を死刑にする場所、死体を人々の前に晒す場所でした。イエスは2人の犯罪者と共にここに引かれて来ました。
新共同訳で「犯罪者」と訳すのは、「悪者」という単語です。十字架は悪者が架かるもの。
イエスは悪者の一人として裁かれるのです。
 人々はイエスの服をくじ引きで取り合いました。十字架に架かる者は腰布だけ。
服を着て十字架に架かる者はいません。聖書で衣服は着る人の身分や立場を表します。
イエスは服をはぎ取られ裸で、普通に生活する人としての人権もユダヤ人としての誇りも、
服と共にはぎ取られ 一人の悪者として 十字架に架かりました。
イエスの十字架上の罪状書きは「ユダヤ人の王」これを書いたのはポンテオ・ピラトです。
ヨハネによる福音書19章で祭司たちから文句が出たのですが、ピラトは変更させませんでした。 
35節、原語では民衆と議員たち両方があざ笑ったと書かれています。
彼らは「他人を救ったのだ。…自分を救うがよい」と言った。救った他人とは誰のこと?
ピラトの前で、イエスの代わりに赦された強盗のバラバ?イエスに病を癒して頂いた人々?
イエスが祝福したパンを食べた、五千人? 
それが誰でも、民衆も議員たちも、イエスが他人を救ったと知っているのです。
 ゲッセマネの園で、イエスは祈りました。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエスは杯を受けたのです。自分を救うことはできないのです。
イエスは十字架に架かるためにこの世に遣わされました。人々の罪のためにイエスを裁き、イエスの命を絶ち魂を滅ぼす。十字架の苦しみと死の後イエスは神から完全に切り離されて
滅び、陰府に降る。それが主なる神がイエスに与えた杯でした。
 ゴルゴタに立った十字架からもののしりは聞こえました。しかし、もう一つの十字架からはこんな声が聞こえたのです。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」
彼は自分の十字架も、イエスをののしった悪者の十字架も、当然だと言いました。
自分達が十字架で死ぬことは相応しい。でも、イエスは
 「しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
イエスには罪は無い。イエスは十字架に相応しくないと言ったのです。
そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」 イエスよ、あなたは神の国から来られ、そこにお帰りになる。イエスは神の子だ。
このように、悪者は自分の信仰を告白したのです。
もう一人は「自分自身と我々を救ってみろ」と要求しました。
けれどイエスを信じた悪者は、「私も御国に連れて行って下さい」ではなく。
「思い出して下さい」 と言いました。私を認めて下さいでも、私を裁いて下さいでもない。
たとえ今、イエスも自分も 同じように十字架に架かっていても、
彼は せいいっぱいの敬意と へりくだりを示しました。
 イザヤ書56章 主なる神のもとに集ったのに、主はどうせ 自分を認めない、と言う人たちがいます。異邦人たちと宦官たち。そして捕囚となったイスラエル人です。 
 イスラエルが捕囚として連れて行かれた国。その国の人々の中に、主を信じ主を愛する者が起されていました。しかし主を信じた異邦人たちは、主は自分たちをご自分の民である
イスラエル人とは区別なさる。自分達は差別されている と言います。
また捕囚の民のうちに、捕虜となっただけでなく去勢され宦官となって働いていた者たちがいたのです。宦官 とはもともと男性。体力はあります。しかし、彼らは子孫を残せない。
将来の希望を語ることができない彼らは、帰国しても差別を受けました。
どうせ自分たちは 役に立たない枯れ木だ。捨てられる運命だ、と彼らは言っていたのです。 
 いま、コロナ禍もあり 多くの教会で礼拝に集う人が減っています。
教会に行かれない日のあと、かえって行きにくい経験は無いでしょうか?
礼拝に入って行けない。自分はいなくていいのかも。まるでイザヤの前の異邦人や宦官のように、きっと自分は役に立たない、と思ってしまうことはないでしょうか?
主なる神は預言者イザヤを通しこう言われます。
あなたたちが主を信じ、主のために働き、主を愛して礼拝するなら、そして神の正義を行い、神の恵みを人々と分かち合って生きるなら、
異邦人でも、宦官でも、主の民なのに神のもとから離れてしまっていても、
主はあなたたちを、ご自分のもとに集める。聖なる祈りの家に連なることを赦される、と。
 ローマの信徒への手紙10章に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエス
を死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」とあります。
洗礼準備などの時、学ぶ御言葉です。 同じローマの信徒への手紙4章5節にはこんな言葉が
あります。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が
義と認められます」
 十字架上で、イエスを信じたこの悪者が 天国に入るのは、何か違う と感じる人はいます。
洗礼も受けていない。神様のために奉仕していない。
イザヤも「礼拝するなら」と言った。この人は一度も礼拝式に出てないのに、と。
イエスの十字架によって、私たちの罪を裁かれたのは、主です。
神殿の幕を切り裂き、ご自分の私たちの隔てを取り除かれたのは主です。
「わたしを思い出してください」と言った彼に、イエスは言われたのです。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
自分の罪を認め、救いが必要と知る人。自分を救い出す方を知っている人。
自分の罪のためイエスの十字架があると 信じる人。 あなたを主は救い出されました。
イエスの苦しみ、受けられた裁きと共に、イエスをこの世に遣わし、私たちを救い出す道を
開かれたのは主なる神に、心からの感謝を捧げましょう。
お祈りいたします。

 

 ノアの箱舟 と呼ばれる大洪水のエピソードはよく知られています。箱舟に入って助かったのは、すべての動物とノアとノアの妻、そして3人の息子たちとその妻。
教会にある絵本には、箱舟に哺乳類も爬虫類も昆虫も来て、ノア一家8人が世話しているところが書かれています。 なぜ、ノアの一家だけ助かったのか。
当時の地上は神の御心に適わない、大いに堕落した人ばかり。神が地上を見てどう判断されたか、そして何を決断されたかが書かれます。  ノアは神に従う無垢な人。ノア一家と地上に住む命あるものを守るため箱舟をつくり、それに入れ、と 神はノアに指示します。
雨が降り始める前から箱舟造りは始まりました。まだ何も起きていないのに舟を造る。
渇いた地面の上の箱舟に乗る、どちらにも主を信じる信仰が必要でした。
6章にも7章にもノアの気持ちは書かれません。ただ、神に命じられるまま「果たした」と書かれているだけです。大雨の音が、舟の外に居た人々の声や物音を、ノアたちから遠ざけたことを願うばかりです。なぜ、ノアの一家だけが助かったのか。なぜ、ノア一家は主の言葉を信じて行動できたのか。
 15節16節に、箱舟の設計が書かれています。3階建て。側面に戸口があり、明り取りの窓(隙間?)があり、動物たちを入れるために、区切られた部屋が沢山ある、木造の舟。
この舟には、進路を決める舵もありません。
舟が動くために必要な、風を受ける帆も 漕ぐための櫓や櫂も、
ペダルもエンジンもありません。広い窓もレーダーもありません。明り取りから少し外が見えるだけ。雨が振り込まないよう、ノアたちは舟に覆いをしました。
外は全く見えません。ただ浮くだけ。舟は沈みはしません。波の上を漂うだけ。
きょう、お読みいただいたヨハネの手紙一4章は、今の時代のことを言っているのか、と
思うものがあります。  偽預言者が大勢、世に出ている。 世のなかの多くの人が偽預言者の声を聞くけれど、神様のことや聖書の語る天国のことを聞かない人ばかり。
私たちは毎日のように詐欺電話の被害を聞き、注文していない商品の連絡を受け、個人情報や写真の流出に神経を尖らせます。どれが正しくて、どのメールには返事をしてはいけないのか。
自分の眼で見て、自分の手で触れたものさえも ホンモノ?と疑ってしまう時代。
自分の魂や命がどんな危険の中に置かれているか、箱舟の中のノアと同じか それ以上に、
私たちの毎日は雑音や不安に満ちています。 
  ヨハネは「確かめなさい」と言います。この手紙が書かれたころ、ヨハネの時代のイエスについてのウワサには、イエス・キリストは神ではなく人間だ、とか、預言者の一人だ、など、いろいろな説もありました。 人間イエスに神の霊が憑依して一時的に奇蹟ができた説や、イエスは人間ではなく霊魂だけで、生まれたのも十字架もそんな風味見えただけの幻 という説もありました。   でも、それではダメなのです。それは全人類の罪の贖いにはなりません。
霊魂だけのイエスでは、死の力にも滅びの力にも、勝つことはできません。 
悪意や自分勝手で暴力的な考え方で話しかけてくる者と、真実の愛で私たちを導く方と。
見分け聞き分け、惑わしから逃れるため、私たちは救い主の霊を選ぶ基準=鍵が必要なのです。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 」
 ノアの時代の人々は箱舟に目を向けませんでした。ノア一家が主なる神に従って、御言葉通り箱舟を造る間も、世界中から動物たちがその舟に向ってやって来た時も、誰一人 興味も関心も無かったのです。
 私たちも、ヨハネが手紙に書いた「世」にいます。一緒に働く人たちも、同じ町に住む人も、残念ながら まだ聖書にもイエスの福音にも 興味や関心のない人ばかり。
私たちの日常は、ノアの箱舟と似ています。詐欺のニュース、自然災害、戦争や経済の問題。どれも信仰の有る無しに関わらず直面する問題です。
だれも、自分の行く先も人生も完全に思い通りに動かせる人はいません。だれもほんの少し先の自分の運命を知る者はいません。
 ノアは信仰を通し語る主なる神に従い、洪水と嵐の中を生き延びました。 
神の愛を知り、導き手として信頼することができるか。それは命や魂の問題です。
ノアは箱舟に乗って、命も自由も進路も希望も力も、すべてを神の手の中に委ねました。
人生の問題に直面した時、ノアが何もかもを委ねたのは、全知全能の神です。
私たちを造り、私たちが持つ罪を知る方。私たち一人一人のために、イエス・キリストを地上に遣わし救いの道を開いた主です。
 箱舟は確かに、大揺れに揺れたでしょう。ノアたちも動物たちも、船酔いしたことはあったかもしれません。嵐の中、振り続ける雨の中で、またいつ地面に辿り着くかわからない水の上で、不安にならないわけはありません。 小さな明り取りからカラスやハトを飛ばした時の、
すがるような彼らの思いは痛々しいほどです。
でも、彼らは生き延びました。舟は新たにされた大地に着きました。
「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。」私たちがまだ、神にもキリストにも関心を持たなかった時から、主は私たちに興味を持ち、愛して下さいました。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う
いけにえ として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」
イエス・キリストの十字架が、私たち人間すべての罪のためだ、と信じ告白する者に、
神はご自身の霊を与えて下さいました。
愛しているから。ご自分のすべてを、聖霊によって私たちに与えて下さいました。
「あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。…あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」 
イエスを信じる者は、その人の内なる聖霊の力によって、神の言葉を聞き分けるのです。
愛によって命に繋がる道に導く、神の霊の言葉を信じて耳を傾けましょう。
お祈りいたします。