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「助け支え力あわせ」

 

 

 フィリピの教会への手紙のきょうの箇所は、女性二人の名前をあげていて、印象的です。

エボディアとシンティケ。彼女たちはフィリピの教会の指導者です。パウロはこの手紙に、

彼女たちは他の人たちと一緒に、福音を宣べ伝える自分を助けてくれた、と書いています。

とても熱心に、真剣にイエスの福音を宣べ伝えているからこそ、その熱心がぶつかり合って

喧嘩になってしまいました。ただこの教会は、彼女たちの争いに飲み込まれてはいません。

パウロが伝道中に捕らえられ投獄されたと聞いても、フィリピの教会はパウロのために熱心に祈ることを止めませんでした。

「真実の協力者よ」という呼びかけがあります。この言葉は以前「シジフォス」という人と思われていました。今、使われている聖書でこれは、一人の人でなく真心から教会や信仰の仲間たちのために動く信徒たちのこと。彼らに向けて パウロが呼びかけたのだ、と考えられています。二人の指導者の争いも、パウロは本人たちにアドバイスしただけでなく、この信徒たちに言っています。「この二人の婦人を支えてあげて下さい」

そして、エボディアとシンティケにも、真実に協力する信徒たちにも、パウロは言うのです。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」

 私たち人はたびたび、神から離れようとしたことがあります。

エデンの園で主の戒めを棄てたアダムに、主は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけました。

アダムの息子カインが弟アベルを殺し隠していた時には「あなたは何をしたのか」

いま、とても苦しい。毎日が困難の連続だ、と思う時、私たちは神が自分たちから離れてしまった、自分は見捨てられたと思ってしまいます。

でも、私たちの神、主は 私たちが全く神を思い出さない時にも、私たちに関心を持ち、

私たちのすぐそばに居て、私たちの声を聞こうと、心を向けていて下さるのです。

 疲れていたり、将来が見通せない時、「常に喜ぶ」のは 無理、できない、と思うでしょう。

パウロはここで、「いつも喜びましょう」とお薦めしているのではありません。

心が楽しいから喜ぶ。これは普通の感情の動きです。何の努力も要りません。

でも、「喜びなさい」と命令されている。主に任せ、主が動いて下さることを感謝し喜ぶのです。

喜ぶことを頑張る力を、下さいと主に願うのです。そして助けて下さる方を喜ぶのです。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」  思い煩うのを止める。

「悩むな!」と言われても難しい。 でもこれは、一人で考えるのは止めて何でも神様に

「何とかして!」と言いなさい、ということです。

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとを

キリスト・イエスによって守るでしょう。」 

ヨシュア記では、本来 敵味方の人が協力し合っています。願いはどちらも、生き残ること。

イスラエルの人々は40年かけて荒野を彷徨ったあげく、ようやくカナンの地に入れるか、というところ。カナンの地の入り口 一番ヨルダン川に近いエリコは高い城壁に囲まれていて、

イスラエル人には戦って勝てると思えない堅固な町に見えました。

モーセの跡を継いだ指導者ヨシュアは、イスラエル人全部をカナンに入植させるために、

カナンの町々が敵か味方か、それぞれの町の様子を探ろうと考えました。

斥候はスパイのこと。私たちが小説やドラマで見るスパイと違うのは、明らかにイスラエル人だとわかる人たちだった、ということです。

 彼らが入った遊女宿は、城壁の上にありました。城壁は薄い壁ではなく、それ自体が建物で

中に住めるのです。昔からどの国でも、遊女宿は町の最も外側です。敵が侵入したら真っ先に攻撃される所に、町の人たちの 弾避けのような立場にありました。

ただ矢面に立たされているからこそ、宿には内外の情報が集まります。エリコの王も、何者かが忍び込んだ、と聞いて、ラハブのところに遣いを出しています。

イスラエル人も、エリコの人々も、願いはどちらも、生き残ること。

ラハブも言ったように、エリコの人々はイスラエル人が主なる神によって守られていると知っていて、自分たちが戦っても勝てない、と すでに戦意喪失しているのです。

 ラハブには、エリコの人々と運命を共にする、という選択肢もありました。

無気力になって、もう何をしても無駄だ、と諦めてしまう。パウロがフィリピの信徒たちに言った「思い煩うのを止める」に似ていますが、大切な要素が欠けています。

パウロが言ったのは「主において常に喜びなさい」 ただ喜ぶのではなく、「主において」

 イスラエル人たちは、主がカナンの地をあなたたちに与える、と約束された言葉に従って、

ここに来ました。ラハブはエリコの一番外側でイスラエルを守る神こそが、真の力ある神だと知り、イスラエルの神、主なる神に味方することを選んだのです。

ラハブはスパイのイスラエル人と助け合い、自分と自分の家族の命を主なる神に託しました。

イスラエル人もラハブもエリコの人も、自分たちだけでは弱い者。生き残る力の無いものです。主なる神の助けを求め、ラハブとスパイたちは互いに協力して家族と自分の民族を守りました。

 フィリピの人たちに、パウロが求めたのは、ラハブがイスラエル人と共に生き残った、その戦い方に似ています。 自分の力、自分の考え、自分の立場。そのすべてを握りしめる手を、

一旦、開いて、その手を合わせて主なる神に祈るのです。

悩みは自分でなんとか、と考えず、すべて主にお話しするのです。

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとを キリスト・

イエスによって守るでしょう。」 互いの中に、主が与えて下さった素晴らしい恵みを心に留め、

私たちの中に働かれる主を喜ぶ。「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」

私たちの弱さを知って支えて下さる主イエス・キリストの御手の中に、私たちは居るのです。

お祈りいたします。