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「あなたが冒涜した方」

 

 

 ヤコブの手紙は、「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じ」ている人たちに

宛てて書かれています。信じている人たちにヤコブは「分け隔てするな」と言います。

 イエス・キリストはヨハネによる福音書13章で、ご自分の十字架に架かる運命が定まったと感じた時、「栄光を受けた」と言われました。

イエスは救い主としてこの世に来られました。十字架ですべての人のために罪の贖いを成し遂げ、

人間の代わりに裁きを受け陰府に降りました。そして復活し、死の力を超える方となり天に昇り、

主なる神の右の座で、私たちを執成して下さっています。

主なる神の御計画された救いをすべて成し遂げられたイエスは、その生涯によって神の愛を

すべての人に示し、栄光を受けました。ヤコブの手紙はこのイエスを信じる人たちに向けて

書かれました。主を信じる私たちもこの手紙の受け手なのです。

 新共同訳が「分け隔て」と訳した言葉は「えこひいき」とも訳せます。

この手紙で「こちらの席にお掛け下さい」と案内している所は教会です。やって来た人がいかにもお金持ちそうな様子を見て、良い席に案内する。この人は貧しく汚い服装の人が入ってくると、立ったまま または他の人の足元の床に座るよう言いつけました。

「足元を見られる」汚れたぼろぼろの靴を見られて、せっかく服や髪形をきれいにしても貧しさがバレてしまうことを言います。きちんとした身なりで 清潔にしていれば粗末には扱われない。それは現代でも「しつけ」の一つとして言われます。

たとえば就職面接やお見合いの席で服装を整えることは、相手とのコミュニケーションの一つですし、合格するため選ばれるための「戦略」でもあります。人間はどうしても、目に見えるもので判断するからです。

 裕福そうで地位や家柄が高そうな人が来た時、人は心の中で計算します。この人と親しくなれば自分も大切にされるかも。得するかも。「貧しい」人にも、人は計算します。

利用価値は無さそう。仲間と思われたくないかも‥‥など。ヤコブが書いた例は貧富の差でした。

私が小岩に着任して電話を受けるようになった人は、別の理由で人々の計算に晒されています。礼拝がしたい聖書を知りたいと何年も教会を捜し、でも拒否され悲しんでいます。

ADHDで障碍者手帳を持つその人は、集会中 静かにできず、礼拝を荒らすと嫌がられました。学びの機会が与えられず、聖書を自分で開けません。さらにこの人は性的少数者で、優しく対応した牧師や役員を信用しカミングアウトしたら「あなたは罪人だ」と拒否されました。

自分のような人がいると知って欲しい、とこの人は言います。

心から神を求める人を受け入れる、憐みを持つことは難しい事でしょうか。

「憐みは裁きに打ち勝つ」 罪赦され死に打ち勝つ力を与えられた者として、

憐みの力は、罪ある者の弱く傷ついた魂に、寄り添う力となるのではないでしょうか。

 預言者アモスはイスラエルとユダの中心都市、サマリヤとシオン(エルサレム)に住む人たちに主なる神の言葉を伝えました。彼らは周辺の国と比べ自分の国は繁栄している、と、安心していました。彼らの代々の王たちは真の神への信仰を捨て、度々 主の御怒りを受けた記録が、旧約聖書サムエル記・列王記・歴代誌にあります。

王が自分たちの神以外を礼拝しても疑問に思わない民。国中に異教の神々の偶像が置かれても、王の悪政で虐げられる人がいても気にしない。戦争や災害が続き国が荒れても自分たちは何とかなる、まあ こんなもんでしょ?と心配しない民。

彼らが4節で宴会に出した肉は、主なる神への献げ物とするために用意されたものだったはず。彼らは献げ物を勝手に食べても平然としていました。アモスは民に言います。

あなたたちは自分の国から追い出され、捕囚となる道を突き進んでいる、と。

 先日、岐阜県であった日本伝道会議は、リモートと出席合わせ3000人規模だったそうです。国内のプロテスタント教会の牧師や信徒が集い、今の日本のキリスト教宣教を語り合いました。 礼拝出席者の減少、牧師の不足、維持できず閉じる教会、これまでの伝道の手詰まり感。どの教団も団体も、同じ問題を抱えています。一教会で維持できない教会堂を、別な教団の教会と礼拝時間を分けて利用する。1人の牧師が複数の教会を信徒と協力して牧会する。

これまでの考え超えた所で、希望が見出されています。

 ヤコブは教会の案内人が金持ちを優遇しているのを見て言いました。「富んでいる者たちこそ、…あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか 」

教会や聖書に興味を持つ人は、心の中の問題や重い経験、未来への不安をかかえています。

目に見える損得勘定で「教会に行く」人はほとんどいません。

「分け隔て」や「えこひいき」では計れない価値を求めて、私たちは教会に集うのです。

見た目や服装で計算できないものを求めているのです。

 「自分が得する相手かどうかを計算し、受け入れる人を選別する」価値観を教会に持ち込むことは、私たちの救い主、栄光に満ちたイエス・キリストの十字架を冒涜することです。

主なる神が呼び寄せ、罪を赦し救うために主イエスが十字架に架かったほどに愛した人、

神の子となったその人を受け入れないなら、私たちは私たちの救い主を大切にせず、

冒涜したことになるのです。

 ローマの信徒への手紙14章4節「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。」

人を勝手な判断で切り捨てることは、主なる神が愛する者を大切にしないことです。

人はみな、主に愛され、主に仕える召使い=僕。あなたもその一人です。

あなた自身を大切にして下さい。あなたは御子イエスが命がけで救った人です。

あなたは神に愛され、憐んで頂いた、大切な人なのです。

お祈りいたします。